私は詩篇5篇が大好きです。子供の時から今でも、その詩篇からの歌を歌い続けています。
私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:1ー3)
この詩篇を読む時、私は正義と助けを願う人が宮廷に入ることを想像します。その人は王の前に跪いて、叫びます。
「私の王。私の神。私を憐れんでください。あなたの助けが必要です。私の願いを聞いてください。」
この箇所では、その人の謙遜な態度が見えるし、その人が王を愛し、信頼することも見えます。
「主よ。朝に私が起きる時、私の最初の思いはあなたについてです。あなたの前に、私は来て、私の願いを捧げて、待ち望みます。なぜなら、あなたが私を愛し、私の祈りに応えてくださることを信じるからです。」
その時、ダビデがどの問題に直面していたのか、私たちは知りません。けれども、いつもトラブルや恐れや心配がある時、彼は王に向かいました。私たちもそうするべきです。
どうして、私たちは神様の前に来られるのでしょうか。私たちは私たちを傷つける人よりも正しい人だからでしょうか。違います。神様の憐れみによって、私たちは神様に近づくことができます。
人は私たちを傷つけたり、裏切ることがあるかもしれません。しかし、神様はそのようなことは決してなさいません。
神様は良い王であり、私たちが叫び求めると、神様は正義を与えてくださいます。また、神様はその翼で私たちを覆ってくださり、守ってくださいます。ダビデはこう祈りました。
あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(11-12)
それを読む時、一つのイエス様のたとえ話を思い出します。その話では、ある女性が不正な裁判官に正義を求めました。彼はしばらく何もしませんでしたが、彼女が諦めずに頼み続けたので、最終的には彼女に正義を与えました。
イエス様はその裁判官を、私たちを愛している天の父に対比されました。
まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。
しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:7-8)
時々、神様がダビデを救い出すために、ダビデは何日間も、何年も待たなければなりませんでした。それでも、彼は自分の信仰を決して失いませんでした。
毎朝、ダビデは神様の前に来て、自分の願いを捧げました。そして、神様は愛をもってその祈りを聞き、最終的にダビデを救い出されました。
私たちも苦しむ時、ダビデの信仰を持ちましょう。なぜなら、神様は私たちの声を聞き、私たちを愛し、私たちの祈りに応えてくださるからです。
