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エゼキエル書

ひとりの神しかおられない

この箇所では、私たちは興味深い「ツロの君主」に関する言葉を目にします。

多くの聖書学者によれば、「ツロの君主」とは人間の王を指しており(1-10節)、「ツロの王」はサタンを表しているとされています(11-19節)。

とはいえ、それが本当かどうかは私には分かりません。「ツロの君主」と「ツロの王」は同一人物、つまり人間の王を指している可能性もあります。彼が自分を神々のようになりたいと願ったのかもしれません。

ただし、その王がサタンであれ人間であれ、神様のポイントは明確です。一人の神しか存在しません。そして、「ツロの君主」もサタンも神様ではないのです。

ツロの君主は自分の力とその都市の繁栄を見て、こう言いました。

私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている。(エゼキエル書28:2)

でも、神様は彼に言われました。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。。。

あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。

あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。(2、8-9)

ここから、私たちは何を学べるでしょうか。

あなたは「私は神だ」と口にしないかもしれません。けれども、神様のように振る舞ってはいませんか。

どれほど、あなたは自分の成功や実績を誇り、周囲の人々を見下しているでしょうか。彼らを兄弟ではなく、自分のしもべのように見てはいませんか。

また、どれほど、あなたは心の王座から神様を追い出し、その王座に自分が座ろうとしているでしょうか。どれほど、神様の御心を求めず、自分の道を歩もうとしているでしょうか。

そのようにして、あなたもツロの王が知ったことを理解することになるでしょう。たとえあなたが美しくても、賢くても、どれほど成功していても、あなたは神様ではなく、ただの人間なのです。

そして、もしあなたが神様に反抗し、その王座を奪おうとするならば、あなたはかえって低くされてしまいます。

唯一の神が存在します。私たちはその神ではありません。

だからこそ、神様の前にへりくだり、仕えましょう。そして、神様を私たちの王として認めましょう。

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イザヤ書

自分自身を神とする

昔、サタンがエデンで言った嘘を、今でも私たちに囁きます。それは、「あなたは神のようになる」というものです。

人類の歴史を振り返ると、人々は自分自身を神にしようとしてきました。つまり、自分の道を進み、心の王座を神様に捧げずに、自分自身がその王座に座るのです。

バビロンの支配者たちも同じことをしました。そのため、イザヤは彼らを責めました。

あなたは「いつまでも、私は女王でいよう』と考えて。。。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。

心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ。。。

あなたは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言う。

あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ。」(イザヤ書47:7、8、10)

バビロンの人々は、神様がご自身について言われた言葉を取り、それを自分自身に当てはめました。

日本語の翻訳では「私だけは特別だ」と書かれていますが、それは少し簡略化された翻訳です。

実際には、バビロンの人々が「私は特別だ」と言ったとき、それは神様の言葉を模倣していたのです。

つまり、

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

また、

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45:5)

また

わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46:9)

しかし、イザヤは彼らに警告されました。

「あなたたちは神ではない。あなたの罪のために裁きが来る。あなたの知恵と力は、神様の怒りからあなたを救うことはできない。」

それでも、どれほど私たちはバビロンの人々のように生きているでしょうか。

私たちは安全だと思い込み、安心してしまいます。自分の道を進み、それで大丈夫だと思い込みます。誰も私たちの罪を見ていないと考え、将来の裁きについて全く思いを巡らせません。

そのような生き方を続けるなら、バビロンの人々のように私たちは倒れるでしょう。私たちは神様の前で裸で恥ずかしい姿のまま立つことになります。

そして、この世の中で、経済問題や結婚生活の問題が生じ、私たちはどうしたら良いか分からなくなるでしょう。

だからこそ、プライドを捨て、心の王座を神様にお捧げしましょう。ただお一人の神様がおられます。そして、その神様は私たちではないのです。