前回の記事では、天にいる者たちが神様の裁きにどう反応したかについて取り上げました。それは喜びではなく、厳かな沈黙でした。
普段、天にいる者たちは喜びと賛美に満ちていますが、第七の封印が解かれると、彼らは静かになりました。
では、私たちは神様の裁きをどう受け止めるべきでしょうか。
十章の冒頭では、ひとりの強い御使いが天から下り、小さな巻物を持っていました(黙示録10:1〜2)。
その巻物には何が書かれていたのでしょうか。おそらく、十一章から二十二章に記されている内容、すなわち教会の迫害、キリストの再臨、神様の最終的な裁きが含まれていたと考えられます。
その御使いは右足を海に、左足を地に置いて立っていました。興味深いのは、十三章に登場する二匹の獣(反キリストと偽預言者)が、海と地から現れ、サタンとともに悪の「三位一体」を形成する点です。
しかし、その御使いは海と地の上に立ち、神様の栄光に輝いていました。おそらく、この描写は、サタンが何をしようとも、神様こそがすべてを支配しておられることを示しています。そして、それは裁きが近づいていることも示しています。
そこでヨハネによれば、七つの雷がそれぞれ声を発しました。おそらく、それは裁きのことばでしょう。けれども、そのとき、ヨハネはその裁きのことばを私たちに伝えることを禁じられました(3〜4節)。
その後、御使いはこう宣言します。「もはや時は残されていない」(6節)。
言い換えると、第七の御使いが最後のラッパを吹くとき、神様の最終的な裁きが下り、神様の計画すべてが実現されます。そして、イエス様はヨハネに語られます。
行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。(黙示録10:8)
ヨハネがそうしてから、御使いは彼に言います。
私にその小さな巻物を下さい。。。それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。(黙示録10:9)
ヨハネがその巻物を食べると、御使いが言った通りに、その巻物はヨハネの口には甘かったが、腹には苦いものでした。そして、御使いはヨハネに言いました。
あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。(11)
これはどんな話でしょうか。
エゼキエル書2〜3章では、私たちは似た話を読みます。エゼキエルが巻物を与えられ、それを食べると、その巻物はエゼキエルの口に蜜のように甘いものでした。そして、神様はエゼキエルに、その巻物の言葉をイスラエル人たちに伝えるように命じられました。
けれども、その書かれていた言葉は、嘆きと、うめきと、悲痛の言葉でした。さらに、神様はエゼキエルに警告されました。「イスラエル人たちはあなたの言うことを聞こうとはしません。」
それで、エゼキエルは自分の霊の憤りを覚えつつ、苦々しい思いで出て行きました。(エゼキエル3:14)
どうしてエゼキエルは怒り、苦々しい思いを持っていたのでしょうか。もしかしたら、彼はイスラエル人の反応に怒っていたのかもしれません。あるいは、自分が愛しているイスラエル人がすぐに裁かれると知っていたため、苦々しい思いを持っていたのかもしれません。
たぶん、ヨハネはエゼキエルのように感じたのかもしれません。
ヨハネが神様の言葉を摂取すると、いつも通りその言葉は彼に甘いものでした。
生きておられる神様が私たちに語られ、神様のご計画を伝えられます。つまり、救いのご計画を伝えられ、その計画に私たちが参加するのは特権です。
けれども、私たちの愛している人々がその甘い言葉を拒絶し、私たちが彼らが必ず裁きを受けると知っているなら、それはさぞ苦いことでしょう。
クリスチャンとして、私たちは裁きをそのように見なすべきです。裁きは甘いものではなく、苦々しいものです。
特に、私たちの愛している人々が裁きを受けることは、苦々しいことです。
それでも、心に留めておきましょう。神様にとっても、裁きは苦々しいことなのです。なぜなら、神様はすべての人々を愛しておられるからです。
時々、私たちはルカの福音書第19章のような聖句を読んで(ミナのたとえ話)、神様がご自分の敵が滅びることを喜ばれると考えてしまいます。(ルカ19:27)
しかし、私たちが忘れがちなのは、そのたとえ話を語られた後、イエス様がエルサレムの外に立ち、迫っている破壊について嘆かれたということです。
イエス様はこう言われました。
もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。(ルカ19:42)
だから、神様が人を裁かれるとき、私たちは彼らの破壊を喜んではいけません。
むしろ、私たちは悲しむべきです。
そして、彼らが神様の裁きを受けないように、ヨハネとエゼキエルのように、彼らのために祈り、愛をもって、彼らに手を伸ばしましょう。
