人は皆、生きがいのある人生を求めるものです。
ダビデには多くのトラブルがあったけれども、彼はそのような人生を送りました。詩篇16篇で、ダビデは命の道について語っています。
しかし、命の道とは生き方のことではありません。命の道とは神様のことです。だから、ダビデはこう言いました。
私は、主に申し上げました。
「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)
その言葉に、ダビデの喜びが見えます。「あなたこそ、私の主。」
自分の人生を支配することが本当の喜びだと思う人もいます。しかし、本当の喜びは、神様を私たちの王とし、神様に従うことです。
なぜでしょうか。なぜなら、神様のほかに本当の幸いはないからです。神様はすべての良い物の源だからです。
ヤコブもその真理を理解しました。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(ヤコブ1:17)
だから、喜びの源から離れると、本当の喜びを見つけることはできません。
けれども、多くの人々は神様から離れて喜びを見つけようとします。だから、彼らはこの世の神々、つまりお金や持ち物やセックスから喜びを求めます。
それら自体は悪いものではありませんが、もしあなたが神様から離れたら、結局それらのものが虚しいことに気づくでしょう。
だから、ダビデはそのような人についてこう言います。「彼らのことは感心しない。今、彼らは成功しているかもしれないけど、結局彼らは苦しむことになるでしょう。だから、私はあなたに従う人生を喜びます。」(3-4)
そして、ダビデは神様に仰ぎ、歌います。
「主よ。他のすべてのものよりも、私はあなたを求めます。あなたは私の遺産です。私が一番大事にするのはあなたとの関係です。その関係によって、私の人生は生きがいがあるものになります。」
時々、人々は神様の命令が重荷だと思います。けれども、ダビデはそのようには考えませんでした。むしろ、ダビデは歌いました。
測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6)
ダビデには、神様と良い関係があったので、神様の命令に従うのは喜びでした。彼が分かっていたのは、その命令が喜びを取り去るためではなく、喜びを与えるためだということです。
また、その命令によって、神様の計画を知り、どのように生きるべきかが分かりました。
だから、ダビデは神様の言葉を喜んで聞いていました。神様の助言を聞き、神様が彼のそばにいらっしゃったので、彼は大変な状態の中でも、決して揺るぐことがありませんでした。(7-8)
それに、死んでも、彼には希望がありました。
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(10)
イエス様の復活によって、その言葉は成就されました。イエス様はこう約束されました。
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)
ダビデは彼の考えを要約して歌います。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(11)
あなたは命の道を知りたいでしょうか。命の道は宗教的なルールを守ることではありません。また、宗教的な習慣を実践することでもありません。
むしろ、イエス様にあって、命の道を見つけます。イエス様が私たちの主なら、生きがいのある人生を見つけます。
だから、イエス様はこう言われました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)
