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コリント人への手紙第一

教会を成長させるには

この箇所で、パウロは教会の礼拝のあるべき姿を教えています。パウロにとって重要なのは、コリントの人々(そして私たち)が、礼拝を秩序正しく行うことです。

そのため、パウロはこう語りました。

だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。(コリント人への手紙第一14:27-28)

なぜ、異言を語る際に解き明かす人が必要だったのでしょうか。それは、解き明かす人がいなければ、異言はクリスチャンたちの成長に役立たないからです。

さらに、パウロは預言について次のように語りました。

預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(29)

彼らはどのように預言を吟味したでしょうか。主に三つの方法があります。

一つ目は、聖書です。 神様は決してご自身の言葉に反することはないため、もし預言が聖書の教えに反しているなら、その言葉は神様からのものではありません。

二つ目は、聖霊様の証しです。 聖霊様が人々の心に働き、その預言が神様からのものであることを確認させてくださいます。

三つ目は、その預言の成就を見極めることです。 もし預言が将来の出来事に関するものであれば、その言葉が実際に成就するかどうかを確認する必要があります。

また、異言を語るときと同様に、預言を語る際も人々は順番に話すべきです。もし多くの人が同時に預言しようとすれば、礼拝の場が混乱に陥るからです。

そして、パウロはここで少し奇妙なことを語りました。

女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。(34)

この箇所にはさまざまな解釈がありますが、パウロはすべての女性が教会で完全に沈黙しなければならないと言ったわけではありません。

なぜなら、11章では、パウロは女性が祈ったり預言したりすることについて語っているからです。また、パウロが女性に沈黙を求めた理由を説明する際、彼は説教に関する女性たちの質問について言及しているようです。

現代では、教会で牧師が説教するとき、皆が静かに聞きます。ところが、おそらくコリントの女性たちはそうしなかったのでしょう。

ある聖書学者によれば、ユダヤ人の会堂の礼拝と同様に、コリントの教会でも男性と女性が別々に座っていた可能性があります。

そのため、女性たちが夫に何かを尋ねたいと思ったとき、大きな声で質問せざるを得ませんでした。けれども、それが礼拝の妨げとなってしまったのです。

この説が正しいかどうかは分かりませんが、女性たちが礼拝の進行を妨げていたことは確かです。そのため、パウロはこう語りました。

もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。(35)

でもパウロは決して、女性たちが預言することとか、祈ることを禁止しません。

むしろ、パウロはこう言いました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(26)

つまり、教会のすべての人が、教会の成長に貢献できるものを持っていくべきだということです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの教会では、訳されない異言で話していたため、礼拝の妨げとなっていました。

また、順番を守らずに話す人がいたことで、教会内に混乱が生じていました。

さらに、説教の際にある人が大きな声で質問したため、その説教の妨げになっていました。

その結果、彼らは教会の成長を妨げました。

あなたはそうしないかもしれませんが、別の形で教会の成長を阻んでいることはないでしょうか。

人の問題のために祈らず、その問題について噂を広めてしまうことはないでしょうか。

人々を励ますことなく、批判してしまうことはないでしょうか。

自分の役割を守るために、同じ賜物を持つ人を助けることを拒んでしまうことはないでしょうか。

あなたの行動が、教会の成長を妨げてしまってはいないでしょうか。あるいは、怠惰な態度や消極的な姿勢のゆえに、教会の成長を阻んでしまってはいないでしょうか。

それとも、あなたは教会の成長を支え、建て上げる者として歩んでいるでしょうか。

私は、教会の成長に用いられたいと願っています。

あなたはどうですか。

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コリント人への手紙第一

分かりやすい言葉で伝える?

この異言と預言に関するパウロの話の中には、牧師に対しても、教会に集う人々に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう語りました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(コリント人への手紙第一14:7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝において、訳されていない異言には価値がないということです。

ところが、時に牧師たちは、神様の真理を教会の人々に伝えようとするよりも、自分の聖書的な知識を披露しようとしているように見えることがあります。

彼らは難解な神学的な言葉を用いますが、その言葉を理解できる人はほとんどいません。そのため、メッセージの後、人々は次のように反応します。

「そのメッセージは素晴らしく、霊的に深いものに聞こえました。けれども、牧師が一体何を言いたかったのか、さっぱり分かりません。」

私もそのような神学書を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な書籍であり、著者は読者が一般の人々よりも深い知識を持っていることを前提としています。それでも、私にはその本が難解すぎて、途中で読むのを諦めました。

さらに、時に私たちは福音を伝える際、「クリスチャン語」を使ってしまいます。たとえば、「贖い」や「イエス様の血によって救われる」、「聖化」、「義と認められる」といった言葉を用います。

しかし、相手がこれらの言葉を聞いても、その意味を理解できないでしょう。

「罪」という言葉も明確に説明する必要があります。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手は「え?私は一度も犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だからこそ、福音を伝えるときは、言葉の使い方に注意するべきです。

私たちが理解しやすい言葉を使わなければ、相手はそれを理解できず、私たちの努力は無駄になってしまいます。彼らにとって、私たちはまるで外国語を話しているように聞こえるのです。

そうではなく、むしろ、福音をシンプルかつ明確に伝えましょう。

また、もし聖書を教える立場にあるなら、人々を自分の知識で感動させようとするのではなく、彼らが理解できる言葉を用いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれることができます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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コリント人への手紙第一

私たちの賜物を正しく理解する?

この箇所を解釈するのは、非常に難しいです。私はさまざまな解釈を聞いてきたので、この箇所の意味を理解しているつもりですが、それが正しいのかどうかは分かりません。もしかすると、将来的に私の考えは変わるかもしれません。

前回の記事で述べたように、パウロは異言と預言の違いを説明し、教会においてなぜ預言がより重要なのかを教えています。

パウロはまず、こう語りました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(コリント人への手紙第一14:20)

コリントの人々はどのように幼子のように振る舞っていたのでしょうか。

彼らにとって、霊的な賜物、特に異言はまるで新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いましたが、周囲の人々への影響をほとんど考えていませんでした。むしろ、彼らはただ賜物を使うことを楽しんでいたのです。

もしかすると、彼らはそれによる霊的な益を感じていたかもしれません(4)。

あるいは、ノンクリスチャンの前で自分の賜物を披露したいと考えていたのかもしれません。

そのため、パウロは彼らにこう言いました。

「悪事においては幼子でありなさい。けれども、霊的な賜物やその他の霊的なことについては、大人のように考えなさい。

自分のことだけを考えるのではなく、周囲のノンクリスチャンのことを考え、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるかをよく考えなさい。」

コリントの人々はどのように考えていたでしょうか。もしかすると、彼らはノンクリスチャンに良い影響を与えていると思っていたかもしれません。なぜなら、何年も前、ペンテコステの時に異言を通して、多くのノンクリスチャンが信仰に導かれたからです。

けれども、コリントの人々は大切なことを忘れてしまいました。ペンテコステの日、エルサレムに集まった外国人たちは異言を理解しました。それは、使徒たちや他のクリスチャンが彼らの言葉で神の栄光を賛美したからです。

その一方、コリントの礼拝では、参加したノンクリスチャンたちは異言をまったく理解できませんでした。そのため、彼らは感動するどころか、むしろコリントのクリスチャンたちを奇妙に思ったのです。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「あなたがたは礼拝の際に異言で話し、ノンクリスチャンを感動させようとしているかもしれません。けれども、聖書の言葉をよく考えなさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(コリント人への手紙第一14:21)

この言葉は、イザヤ書 28:11ー12 から来ています。

その文脈では、イスラエルの人々は神の言葉を意味のないものとして扱いました。そこで、神は彼らにこう言われました。

「あなたが私の言葉をちんぷんかんぷんだと思うのなら、では、本当の意味の分からない言葉を示そう。あなたがたが他国へ追放されれば、その国の言葉はあなたにとって全く理解できないものとなる。それでもあなたがたは悔い改めないだろう。」

パウロはこの神の言葉を異言に当てはめています。

「分からないのですか。訳されていない異言はノンクリスチャンにとっては、確かにしるしです(22)。

ところが、そのしるしは彼らの悔い改めのためではなく、むしろ裁きのためのものです。彼らが理解できる言葉を拒絶した結果、神の言葉はすべて彼らにとって意味の分からないものとなり、彼らの心はさらに頑なになるのです。」

そこで、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日にも、異言を理解できなかったユダヤ人たちはそのように言いました。(使徒の働き2:13)

対照的に、預言は信じる者となる人々へのしるしです。(コリント人へ手紙第一14:22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。

こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

認めなければならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」とは言わず、「信じている人」と述べています。

しかし、24-25節を見ると、パウロは将来信じるようになる人について語っているようです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの人々は霊的な賜物とその目的を正しく理解できていませんでした。そこで、パウロは彼らに警告しました。

「あなたの賜物の使い方は、あなたの望む結果をもたらすのではなく、むしろ逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の賜物を正しく理解していますか。その賜物が誰のためであり、何のためであるかを覚えていますか。

その賜物を誤った方法で用いるなら、あなたはその結果に驚くことになるでしょう。

だから、心に留めておきましょう。賜物は主に私たち自身の益のためではありません。むしろ、それは神様の目的と栄光のためのものです。あなたはどのように自分の賜物を用いていますか。