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マタイの福音書 マタイ17章

意図的に人々を怒らせる?

私たちクリスチャンは、この世界の人々とは異なる価値観と考え方を持っているため、時には彼らの意見に反対せざるを得ないことがあります。

ただし、私たちが信じることを伝える際に、相手が不快に感じる場合があります。

とはいえ、私たちの信仰のゆえに相手が不快に感じることと、私たちが意図的に相手を怒らせることには大きな違いがあります。

前者はやむを得ないことですが、後者は罪です。

この話では、イエス様とその弟子たちはカペナウムという場所にいました。そして、宮の納入金を集める者がペテロに「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか」と尋ねました。

おそらくペテロは焦って「もちろん払います」と答えたのでしょう。

その後、イエス様はペテロにこう尋ねられました。

シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。(マタイの福音書17:25)

ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様はこう言われました。

では、子どもたちにはその義務がないのです。(26)

要するに、イエス様は神様のひとり子であるため、納める義務はありませんでした。それでも、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。

その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。(27)

イエス様は払わない権利を持っておられました。けれども、もしイエス様がその権利を主張されていたなら、相手は怒ったでしょう。だから、イエス様は納められました。

この話から二つの応用を考えることができます。

第一に、時には、私たちは相手のために自分の権利を譲らなければならないということです。

私が大学生の時、クリスチャンのキャンプに参加しました。暇な時間に私たちはトランプをしていました。

もちろん、ギャンブルはしていませんでしたが、ある女性が怒りました。彼女はトランプをするのはよくないと教えられていたからです。

私たちはその考え方が間違っていると思いましたが、彼女を責めることはしませんでしたし、彼女の感情を無視することもありませんでした。むしろ、私たちはトランプをやめました。

もし続けていたら、彼女につまずきを与えることになり、それは罪だったでしょう。

もう一つの応用は、私たちが信じていることのゆえに相手を怒らせてしまうことがあるかもしれません。それでも、私たちは彼らに愛を示すことができます。

あるクリスチャンは、ゲイの生活が罪であると明確に言いますが、エイズにかかっているゲイの人々を愛し、世話をすることもします。

私の牧師の義理のお父さんとお母さんはクリスチャンではありません。そして、仏教の儀式があるとき、私の牧師とその妻は参加しません。

しかし、彼らはご両親にこう言いました。「私たちは儀式に参加しませんが、家を掃除し、儀式の後、食べ物を出したり、できるだけお手伝いします。」

彼らは、自分が信じることをはっきりと伝える一方で、愛も示しました。

私たちが信じることのゆえに相手を怒らせてしまうことがあるかもしれません。けれども、意図的に相手を怒らせることは罪です。

私たちがただキリストに従うゆえに怒る人がいることはやむを得ないことですが、意図して彼らを怒らせる必要はありません。