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詩篇のデボーション 士師記のデボーション

誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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ローマ人への手紙

神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値がないと教えているように思われるかもしれません。

しかし、3章では、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値があるとはっきりと教えています。彼はこう語りました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ人への手紙3:1-2)

要するに、ユダヤ人であることの一つの利点は、神様が彼らに直接ご自身を現されたことです。そのため、彼らは神様の御名を知り、神様がどのような方であるかを理解しました。

他の国々の人々も、被造物を通して神様の存在を知ることができました。けれども、それ以上のことは分かりませんでした。

しかし、以前も述べたように、そのような知識を持つことにはマイナス面もあります。つまり、より多くの知識を持っている人は、神様からより厳しい裁きを受けることになるのです。

そして、残念なことに、ユダヤ人たちの歴史を振り返ると、彼らは神様を知っていながらも背を向け、異なる神々に従っていました。

では、神様はユダヤ人たちを見捨てられたのでしょうか。一部の聖書学者たちは、そのように考えています。彼らの主張によれば、クリスチャンこそが「新しいイスラエル」です。

ある意味では、それは正しいとも言えます。後の箇所で見るように、私たちは神様の家族の一員とされたのです。

とはいえ、「神様はユダヤ人たちを完全に見放された」と断言するのは行き過ぎた解釈かもしれません。パウロは、ユダヤ人について次のように語っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれません。それでも、神様はユダヤ人たちを決して見捨てることはありませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無にすることはなかったのです。

人は自分の約束を破ることがあるかもしれませんが、神様は常にご自身の約束を守られます。だから、神様の裁きが不公平だと言える人は誰もいません。

このような理由から、いつかすべてのユダヤ人がイエス様こそメシアであると信じるようになるでしょう。

しかし、ユダヤ人ではない人も、この箇所から励ましを受けることができるでしょう。なぜなら、私たちもユダヤ人たちと同じように、しばしば不真実であるからです。

私たちは、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じず、時には神様が私たちの最善を知らないかのように思うことすらあります。そのため、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を歩もうとします。

それでも、神様は決して私たちをあきらめることはありません。神様は私たちを追い求め続けてくださいます。

だから、時に神様は私たちを懲らしめられます。けれども、その懲らしめの中にも、神様の愛と最善を望む御心があるのです。そして、たとえ何度失敗しても、神様が私たちを見放されたのではないかと心配する必要はありません。

パウロは別の手紙の中で、次のように語っています。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するときも、つまずくときも、神様の真実な御性格を心に留めておきましょう。そして、神様の約束を心に刻み続けましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

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ルカの福音書 ルカ10章

行動と真実をもって愛するか

この話を読むたびに、ヨハネの言葉が心に浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話を通して、私たちはその深い意味を見いだすことができると思います。このサマリヤ人はどのようにして行動と誠実さをもって愛を示したのでしょうか。

まず一つ目に、彼は自分の文化における偏見を捨てました。

おそらくユダヤ人たちはこの話を聞いた時、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、ユダヤ人の泥棒が旅行者を襲い、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)がその人を助けなかったからです。

そしてその後、サマリヤ人が登場します。サマリヤ人たちは混血の人々であり(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様への礼拝と偽物の神々への礼拝を混ぜたため、ユダヤ人たちから軽蔑されていました。その結果、サマリヤ人たちもユダヤ人を憎んでいたのです。

しかし、この物語の中で、サマリヤ人は怪我をしたユダヤ人を見た時にその人を憐れみました。

しかも、そのサマリヤ人は憐れむだけでなく、具体的な助けを提供しました。もちろん、怪我をした人を憐れむことは良いことですが、助けなければそれは意味を持ちません。

では、そのサマリヤ人は何をしたのでしょうか?

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、このサマリヤ人は自分のお金を使ってその人の世話をしました。(35)

そして、イエス様が律法の専門家に言われたように、イエス様は私たちにもこう言われます。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要としているなら、その人を助けなさい。」

とはいえ、言い訳をするのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」 「助けたいけれど、何もできない。」 「もっと大切なことをしなくてはならない。」

おそらく、祭司とレビ人もそのように考えたのでしょう。もしかしたら、彼らはその人がすでに死んでいると思い、その遺体に触れることで儀式的に不潔になることを恐れたのかもしれません。

(神様の律法では、儀式的に不潔な人は神殿に入ることが許されていませんでした。)

そのため、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先させました。

また、彼らはこう思ったかもしれません。「私は医者ではない。これは私の責任ではない。何もできない。」

どのように考えたとしても、彼らは神様の言葉を忘れてしまいました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうでしょうか。周りの人々のニーズを見る時、その人を無視するでしょうか。もしかすると、祈るだけで実際に助けることはしないでしょうか。それとも、ただ言い訳をしてしまうでしょうか。

憐れみ深い心を持って生きましょう。なぜなら、神様はそのような心を望んでおられるからです。言葉や口先だけで愛するのではなく、行動と真実をもって愛を示しましょう。