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マタイの福音書 マタイ13章

隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。

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マタイの福音書 マタイ7章

山上の説教:語るべき時、黙るべき時

前回の記事で私は書きましたが、イエス様は私たちに、偽善的に裁いてはいけないと注意されました。しかし同時に、イエス様は私たちが罪を犯す人を叱責すべきだとも教えておられます。

とはいえ、相手を叱責するとき、もう一つの重要なことに注意するべきです。それは、あなたは誰を叱責しているのかということです。

イエス様はこう言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(7:6)

イエス様が意味されたのは、あなたが相手を叱責しても、聞いてくれない人もいるということです。

その場合、あなたが話しても、それは無駄になってしまいます。なぜなら、彼らは神様からの言葉を聞こうとせず、あなたが叱責しようとすると、逆にあなたを攻撃するからです。

そのため、イエス様は、そのような人には何も言わない方が良いと教えられました。

ソロモンもほぼ同じことを語っています。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。(箴言9:8)

その真理を福音を伝えることに当てはめることができます。

あなたが福音を伝えるとき、あなたをあざける人もいるでしょう。そのような人は、神様の手に委ねる方が良いです。なぜなら、あなたは自分の役割をすでに果たしたからです。その責任は相手のものになりました。

あなたには、福音の真珠を彼らに投げ続ける必要はありません。

福音をあざける人を見るのは苦しいことです。また、神様のみ言葉に心を固くする人を見るのは辛いことです。

しかし、あなたがみ言葉を伝えて相手がその言葉を拒否した場合、あなたにできることはその人のために祈ることだけです。あなたではなく、神様だけがその人の心を変えることができるのです。

あなたは、今、誰に真珠を投げているでしょうか。