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コリント人への手紙第一

知識をどのように扱うか

さまざまな意味で、この箇所はローマ書14書に似ています。そこで、まず1〜3節を見て、この言葉がどのようにこの章の残りの部分に関わるのかについて考えたいと思います。

パウロはこう語っています。

次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(コリント人への手紙第一8:1-3)

クリスチャンの兄弟たちが偶像に捧げられた食べ物を食べることに対して、あるコリントの人々は戸惑いを感じたようです。彼らは、そのような食べ物を口にすることは罪だと考えました。

このような人々について、パウロはこう書いています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ書14:23)

一方で、ほかのコリントの信者たちは、偶像に捧げられた肉を食べることが彼らの霊的な歩みに影響を与えないことを理解していました。実際、イエス様は「すべての食べ物は清い」と教えられました。(マルコ7:19)

ところが、その知識が彼らのプライドへとつながりました。そして、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちの前で、自らの自由を積極的に行使し、偶像に捧げられた肉を食べました。

彼らの行為によって、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちは、自分の良心に反しながらその肉を口にし始めました。しかし、彼らの行為が信仰から出たものではなかったため、その肉を食べることは彼らにとって罪となりました。

そのため、パウロは知識のある兄弟たちに厳しく戒めました。なぜなら、彼らの行為によって、弱い兄弟たちが罪に陥ってしまったからです。

そのうえでパウロはこう語りました。

「もちろん、偶像は真の神ではありません。私たちはそのことを知っています。だから、偶像に捧げられた肉を食べても問題はありません。」

とはいえ、パウロはさらにこうも語りました。

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(コリント人への手紙第一8:2)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。単に知識を持っているだけでは十分ではありません。その知識をどのように扱うかを理解し、正しく用いなければなりません。知識の扱い方を知らなければ、その知識は不完全なものとなります。

では、私たちはどのように知識を用いるべきでしょうか。それは、愛をもって知識を扱うことです。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)

知識を持つことは、時にプライドへとつながるかもしれません。「私は知っている。あなたは知らない。」

そのプライドによって、ある人は聖書について延々と議論しますが、何も解決しません。

また、知識とプライドのゆえに、人は相手を見下し、裁いてしまいます。

さらには、そのプライドによって、教会が分裂してしまうことさえあります。

コリントの教会でも、このような問題が生じました。そこで、パウロは彼らに語りました。

「あなたが知識を持っていること自体を、神様は喜ばれるわけではありません。神様が喜ばれるのは、あなたたちがその知識をどのように用いるかです。

その知識によって人々を築き上げるでしょうか。あるいは、その知識によって人々を壊してしまうでしょうか。」

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。(3)

私たちは、人が神様を愛しているかどうかをどのように見分けることができるでしょうか。ヨハネはこのことについて、私たちに教えています。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。(第一ヨハネ4:21)

残念なことですが、コリントの人々はそうしませんでした。彼らは、自らの知識によって兄弟たちを築き上げるのではなく、かえって崩してしまいました。その結果はどうなったのでしょうか。

つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。(11)

だから、パウロは彼らに警告します。

あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(12)

そして、パウロは彼らに、知識をどのように用いるべきかを教えています。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)

あなたはどうでしょうか。自分の知識をどのように用いていますか。

自分を高ぶらせ、兄弟姉妹を傷つけてしまうでしょうか。それとも、彼らを築き上げ、成長を助けるでしょうか。

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ローマ人への手紙

福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

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ルカの福音書 ルカ10章

知識をもって、行動する?

この箇所を読む時、もう一つの考えが心に浮かびました。

この話の中には、神様の言葉をよく知っている三人が登場します。

もちろん、律法の専門家は実在した人物ですが、残りの二人(祭司とレビ人)はフィクションの登場人物です。とはいえ、そのフィクションの登場人物にも、律法の専門家と同じ問題がありました。

この三人は神様の律法を熟知しており、もしイエス様が律法に関する質問をしたなら、彼らは即座に答えることができたでしょう。

しかし、彼らの心の中で、その律法の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。そのため、たとえ話の中で、祭司とレビ人は怪我をした人を助けることがありませんでした。

彼らは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛すること」と「隣人を愛すること」の本質を理解していなかったのです。むしろ、自分の愛の欠如に対して言い訳をしていたのです。

律法の専門家も同様でした。律法を読んで自分の弱さを見た時、彼は「イエス様、どうすればよいでしょうか。私は神様の基準を満たすことができません」とは言いませんでした。

代わりに、彼は自分の正しさを証明しようとしました。イエス様は彼の心の状態を示そうとされましたが、律法の専門家は律法の意味を議論したいと考えていました。

その結果、彼はイエス様にこう尋ねました。「では、私の隣人とは、誰のことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を通して律法の専門家に自分の質問に答えさせました。そしてイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」

そのあと、律法の専門家はどうしたのでしょうか。私たちにはわかりません。

おそらくルカは、私たち自身が自分の心を探ることを望んだのだと思います。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どう応答するでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りません。聖書の言葉を引用するだけでも足りません。その言葉に従い、その言葉を心に受け入れて、私たちの内面を変えていく必要があります。

もう一つのことを考えましょう。

このたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を目撃したでしょうか。もし目撃していたとしたら、彼らを見てどう感じたでしょうか。

周囲の人々は私たちを見る時、何を見るでしょうか。彼らはこう言うかもしれません。

「どうしてこの人は愛にこんなに満ち溢れているのだろう。どうしてこの人はこんなにも憐れみ深いのだろう。私もそのようになりたい。」

あるいは、彼らはこう言うかもしれません。「これがクリスチャンですか?私の方がずっと良い人間だと思いますけど。」

私たちは知識だけを持つことのないようにしましょう。むしろ、神様の言葉を心に受け入れ、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って宗教的な活動をするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。

そうすれば、私たちを見る時、周りの人々はイエス様を見ることができ、イエス様についてもっと知りたいと思うようになります。

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マタイの福音書 マタイ13章

神の宝を分かち合う?

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様は私たちにこの質問をされるのではないかと思います。この箇所で、イエス様は同じ質問を弟子たちにされたのだと思います。

イエス様は彼らにこう問いかけられました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言われました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(マタイの福音書13:52)

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようなものです。(ギリシャ語で「倉」という言葉には、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、この同じ言葉が新改訳で「宝」として翻訳されています。)だから、私たちはその知識を軽んじてはいけません。

2.私たちが問題に直面するとき、また周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を活用すべきです。

私たちは神の国に関する知識という宝を与えられています。その知識を周囲の人々に分かち合わなければなりません。私たちのメッセージは何ですか。

そらは、神様は人々を素晴らしい価値のある真珠とみなされるのです。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、十字架で私たちを買い取られました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれ、裁かれるのです。

さらに、今でも神様はこの世に働いておられます。そして、神様が蒔かれた種は小さいかもしれませんが、その過程が私たちには見えなくても、その種は成長します。サタンでさえ、その成長を止めることはできません。

そして、その木の下で、人々は平和と喜びを見いだすのです。

あなたがその宝を分かち合うとき、それを初めて聞く人もいれば、何度も聞いたことがある人もいるでしょう。

それでも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに分かち合いましょう。なぜなら、多くの人々が愛、希望、そして人生の目的を求めているからです。そして、私たちが持っている宝だけが、その飢えを満たすことができるのです。

さらに、ある日、神様はあなたに問われるでしょう。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたが、それをどうしましたか。周りで苦しんでいた人々にそれを分かち合いましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。