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ヨシュア記のデボーション

これはどういうものなのですか

後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、 あなたがたは彼らにこう言いなさい。

『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』(ヨシュア記4:6ー7)

日曜日、私の牧師はアブラハムの割礼について語りました。 その割礼によって、アブラハムは神様との関係を常に思い起こされていました。

今日の箇所に登場するヨルダン川から取られた石々も、同じような目的を果たしていました。 その石を通して、イスラエルの民は神様との関係を、特に主がなしてくださったみわざを、いつも思い出していたのです。

礼拝の中で、牧師は私たちに問いかけました。 「あなたと神との関係を思い起こさせるものは何ですか。」

私は今、自分の洗礼式の記念写真のことを思い浮かべています。 その写真は、押し入れの箱の中にしまわれています。 ガラスの枠は割れてしまいましたが、写真そのものは今も残っています。

そして私は、こんな問いを心に抱きました。 「どうして、その写真は箱にしまわれたままなのだろうか。 あの写真は、私にとって何を意味しているのだろうか。」

実際、この写真は私にとって、とても大切な転換点を表しています。

正直に言うと、私はバプテスマを受けた当時、その意味を完全には理解していませんでした。「私はクリスチャンです」と宣言することは知っていましたが、それ以上のことはあまりわかっていなかったのです。

それでも、今でもはっきり覚えている場面があります。 牧師が私にこう尋ねました。「なぜ、バプテスマを受けたいのですか。」

私はこう答えました。「神様をもっと知りたいのです。」

振り返ると、それはとても不完全な答えだったと思います。 でも、神様はその答えを受け入れてくださいました。

バプテスマの直後、神様はさまざまなかたちでご自身を私に現してくださいました。

そろそろ、あの写真を箱の中から出して、目につく場所に飾り直してもいいのではないかと思っています。

あなたはどうですか。 あなたと神様との関係を思い起こさせるものが、あなたの身の回りにあるでしょうか。 神様がしてくださったことを思い返させるような、大切な記念はあるでしょうか。

箱から取り出し、もう一度目に見えるところに置くべきものは、ありませんか。

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イザヤ書 列王記第二 歴代誌第二

私たちが立てられる岩、つまずきの岩

妥協――私たちの信仰を妥協するのは、時として本当に簡単なことです。

私たちが神様のために決断を迫られるとき、私たちはどうするでしょうか。神様に従うでしょうか。それとも、人々からのプレッシャーに屈するでしょうか。

二人の預言者、イザヤとオデデは神様に従いました。けれども、ある祭司ウリヤはそのプレッシャーに屈してしまいました。

ユダの罪のゆえに、神様はアハズの軍隊をイスラエル軍の手に渡されました。けれども、イスラエル人たちはユダ人の物だけを奪うことにとどまらず、ユダ人をイスラエルまで連れて行き、奴隷にしようとしていました。

しかし、サマリヤに入る前に、オデデはイスラエル人たちの前に立ち、こう言いました。

見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。

今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。

しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。

今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。(歴代誌第二28:9-11)

オデデにとって、そのメッセージを伝えることは非常に困難だったと思います。ユダ人たちが多くの悪事を行った一方で、イスラエル人たちはそれ以上に酷い人々でした。

それでも、この一人の預言者は軍隊の前に立ち、「あなたたちは間違っている」と言わなくてはなりませんでした。

もし私がオデデだったなら、こう考えたかもしれません。

「彼らは私の言葉に決して従わないだろう。なぜこんなメッセージを伝えなくてはならないのか。きっと私は殺されるだろう。」

それでも、オデデは彼らの前に立ち、神様のメッセージを伝えました。そして、彼らはオデデの言葉に従い、ユダ人たちに衣服と薬と食べ物を与え、彼らを解放しました。

一方で、ウリヤは全く勇気を持たず、神様の言葉をアハズ王に伝えることができませんでした。

それは驚くべきことです。なぜなら、かつて神様は「ウリヤはわたしの確かな証人」と言われたからです。(イザヤ8:2)

けれども、列王記第二によれば、アハズはウリヤにアッシリヤの神々のために祭壇を造り、全焼のいけにえを捧げるよう圧力をかけました。

そして、モーセの兄アロンがしたように(出エジプト記32章)、ウリヤはそのプレッシャーに屈しました。アハズのためにその祭壇を造り、その偶像を礼拝し始めたのです。

神様はイザヤを通して、そのような妥協について警告されました。(イザヤ書8:11-21)

例えば、神様はイザヤにこう言われました

この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。(イザヤ書8:12)

ヘブル語で「謀反」にはもう一つの意味があります。それは「同盟」です。

したがって、この箇所を「この民が同盟と呼ぶことをみな、同盟と呼ぶな」と翻訳することができます。

この翻訳が正しいとするならば、多くのユダ人がアッシリヤとの同盟を望んでいたことを意味するでしょう。なぜなら、イスラエルとアラムは同盟を結び、ユダを攻撃していたからです。

しかし、神様はこう言われました。

「妥協してはいけません。不敬虔な国と同盟を結んではいけません。このイスラエルとアラムの同盟を恐れてはなりません。周りの人々を恐れるのではなく、むしろ私を恐れなさい。そうすれば、私はあなたの聖所となるでしょう。」(イザヤ書8:12-14)

また、神様はこう言われました。

「霊媒に尋ねてはなりません。あなたは私に尋ねなければなりません。どうして光を持たない人々に助言を求めるのでしょうか。そのようなことをすると、あなたは苦悩と暗闇だけを見つけるでしょう。」(19-22)

神様はイザヤに次のように言われました。

[主は]イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。(14-15)

新約聖書の著者がその箇所を引用すると、彼らはその「岩」をイエス様と結びつけました。つまり、イエス様はイスラエルの民にとって「つまずきの石」となるという意味です。

ペテロは次のように記しています。

彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2:8)

その「御言葉」とは、「悔い改めてください。あなたの罪が赦されるためにイエス・キリストを信じてください。」というメッセージです。

しかし、私たちが神様に背くならば、神様は私たちにとってつまずきの岩となられます。そして、ユダ人とイスラエル人が砕かれたように、私たちも背きによって倒れ、砕かれるのです。

したがって、私たちには選択肢があります。神様に背いて倒れるか、それとも神様を私たちの基礎とし、人生の礎石とするかです。

その選択をした場合、どうなるでしょうか。ペテロは次のように記しています。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(第一ペテロ2:6)

イザヤとオデデのようになりましょう。プレッシャーが来ても、妥協してはいけません。むしろ、私たちの岩であるイエス・キリストの上にしっかりと立ちましょう。

イザヤのようにこう言いましょう。

私は主を待つ。。。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ8:17)