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エゼキエル書

破れ口に立つ?

私たちは、この世の悪を目にするたびに、しばしば文句を言います。けれども、本当にそれを気にかけているのでしょうか。その悪に対して、私たちは具体的にどのような行動をしているのでしょうか。

この箇所では、神様はエゼキエルに、間近に迫ったイスラエルの裁きについて警告するよう命じられました。

すなわち、バビロンを通して、イスラエルのリーダーたちの地位が取り去られることになるのです。祭司たちの被り物は剥ぎ取られ、王の冠は取り去られます。(エゼキエルしょ21:25-26)

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。(21:6)

なぜなら、そのように裁きの日が来ると、イスラエルの人々は皆嘆くことになるからです。

では、どうして裁きが来るのでしょうか。それは彼らの罪のためです。イスラエルには、偶像礼拝があり、殺人事件があり、性的な罪があり、その他さまざまな堕落がありました。

簡単に言うと、イスラエルの人々は神様を忘れ、自分の道を歩んでいたのです。(22:1-12)

しかし、22章の最後で、神様はとても興味深いことを語られます。

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(30-31)

壊れた石垣を築く者、破れ口を修理する者。

昔の都市の防御は石垣でした。その石垣が壊れると、その都市は敵の攻撃を受けやすくなります。

イスラエルの霊的な石垣は崩れ、大きな穴が開いてしまいました。つまり、彼らは神様に背を向け、さまざまな罪を犯していたのです。

そこで、神様は問いかけられました。「その道徳の石垣を修理する者はいないのか。私の律法は彼らを守るためのものだったが、彼らはその律法を取り壊してしまった。」

けれども、神様はもう一つのことを示されているようです。

日本語の聖書では、「破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めている」と訳されていますが、ヘブル語で使われている「修理する」という語には、複数の意味があります。その一つが、「立つ」という意味です。

英語の聖書の多くでは、この箇所がそのように訳されています。つまり、「神様は破れ口に立つ者を探している」という表現になっています。

神様はその破れ口に入ろうとされています。そして、そのまま裁きが訪れます。果たして、誰かがその破れ口に立つでしょうか。

誰もいないなら、多くの人々が滅びることになります。しかし、誰かがその破れ口に立ち、そこから人々のために祈るならば、神様は憐れみを与えるかもしれません。

何度もモーセはイスラエルの人々のために祈り、神様は彼らを滅ぼさずに憐れみを与えられました。モーセはその破れ口に立ち、祈り続けたのです。

けれども、エゼキエルの時代には、ほとんど誰もそのように立ち上がる者はいませんでした。その結果、裁きが訪れることになりました。

では、あなたはどうでしょうか。この世の悪を見るとき、ただ文句を言うだけでしょうか。ただ嘆くだけでしょうか。

それとも、何か行動を起こすのでしょうか。エゼキエルのように、正義のために戦いますか。周りの人々に裁きについて警告しますか。

あなたは彼らのために祈りますか。

聖霊が彼らの心に働いて、その破れ口を修理するように祈りますか。イエス様がその破れ口の中に立ち、彼らを救ってくださるように祈りますか。

私たちがただ涙を流すだけでは十分ではありません。その破れ口に立たなければなりません。

あなたはその一歩を踏み出すでしょうか。