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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛に関する確信を持つなら

この手紙では、ヨハネの話がしばしばあっちこっちに飛んでいるように見えるかもしれません。

特に13節と14節では、そのように感じられるでしょう。ヨハネは私たちの救いの確信について話していたかと思うと、突然、神様が私たちの祈りに答えることについて語り始めます。それはなぜでしょうか。

しかし、この場合、その二つの聖句には深い繋がりがあるように思います。パウロはこう書きました。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

言い換えると、神様が最も尊いものを私たちに与えるほど私たちを愛しておられるのなら、神様は私たちのすべてのニーズにも備えてくださる、ということです。

おそらくヨハネも同じことを言っているのでしょう。彼はこう言いました。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:13-14)

時々、私たちは神様に何かを願うことをためらうことがあります。それは、自分が自己中心だと思うかもしれないからです。

しかし、神様の子どもとして、どんな願いであっても確信を持って神様に頼むべきです。なぜでしょうか。

それは、私たちが神様を呼び求めたとき、神様が私たちを救ってくださったほどに、神様は私たちを愛しておられるからです。その愛ゆえに、神様は私たちの大きな願いも小さな願いも聞いてくださいます。

さらに、神様が私たちを救ってくださったので、私たちは神様が私たちの最善を望んでおられることを確信できます。だから、神様は私たちを傷つけるものではなく、良い賜物だけを与えてくださるのです。

これが、私たちの願いの条件です。もし私たちが神の御心に従って願うなら、神様はその願いを聞いてくださいます。そして、もしその願いが私たちの益となるなら、神様はその祈りをかなえてくださいます。

けれども、その願いが私たちの益とならないのであれば、神様はその祈りをかなえてくださらないのです。

ですから、神様に願うことをためらわず、どんな願いもお伝えしましょう。

そして、神様に信頼する心を持ちましょう。神様が「はい」と答えるときも、「いいえ」と答えるときも、私たちは神様に信頼する子どもとして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じましょう。

十字架において、神様は私たちに対する愛と信頼に値するお方であることを証明されたのです。

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エペソ人への手紙

自由と確信

私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。

パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。

もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。

しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)

その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。

おそらく、そうではなかったでしょう。

彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。

また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。

そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。

しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。

私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)

なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。

さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。

もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。

そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。

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詩篇

私たちの希望と確信

詩篇71篇はあまり有名な詩篇ではないかもしれませんが、私はこの詩篇を読めば読むほど好きになります。なぜなら、最も暗い時に、詩人は神様を知っていたので、希望と確信があったからです。

だから、彼はこう書きました。

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。

あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。(詩篇71:1-2)

私は5節も大好きです。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。(5)

そして、自分の敵からの救いのために祈る時、彼は歌います。

しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。(14)

この世には、多くの人々が自分の辛い状況のため、希望を失います。だから、詩人の言葉は私の心に響きます。「私自身は絶えずあなたを待ち望みます。」

どうして彼にはそんな希望があったのでしょうか。

あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20)

多くの人々は自分の試練のため、神様に怒ります。しかし、詩人は神様の慈しみを確信を持って宣言します。つまり、彼が試練を通っていても、神様はもう一度彼を引き上げてくださるということです。

だから、この詩篇の中で、私たちは神様に対する彼の賛美する心を見ることができます。彼は歌います。

神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(19)

また、

私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。(23)

あなたはどうですか。あなたの試練のため、希望を失いましたか。それとも、神様があなたを救い出してくださるという確信を持ち、まだ希望を持っていますか。