カテゴリー
ルカの福音書のデボーション

目を覚まして祈る

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6:12)

ルカ3〜6章を読んで、イエス様が祈るために、3回一人で出て行かれたことに気づきました。

5章によれば、イエス様はしばしばそうされました。

今朝、私が思ったのは、私もイエス様の模範に従うべきだということです。

天の父は私を愛し、私の回りの人々に触れたいと願っておられます。でも、私は天の父が何をなさっているのか、気づいているでしょうか。

その一方で、サタンは私を憎み、私と私の愛する人々を滅ぼそうとしています。でも、私はサタンが何を謀っているのか、気づいているでしょうか。

イエス様は私たちに、「目を覚まして祈っていなさい」と命じられました。

パウロとペテロも、同じことを私たちに語っています。(エペソ6:18、コロサイ4:2、第一ペテロ4:7)

でも、私はそのことばに従っているでしょうか。

天のお父さん、あなたが何をなさっているのか、また、サタンが何を謀っているのか、私がしっかり気づくことができますように。

イエス様がなさったように、目を覚まして祈ることを、私に教えてください。

カテゴリー
ヤコブの手紙

祈っている信仰

以前にも言いましたが、ヤコブの手紙は、一見すると時に少し支離滅裂に見えるかもしれません。けれども、読み進めるうちに、その流れが明確になっていきます。

そして、今日の箇所では、ヤコブは第一章で取り上げたテーマの一つに戻ります。それは、試練の中での祈りです。

第一章では、ヤコブはこう語りました。試練の時に、私たちが神様の知恵を願うならば、信仰をもって祈らなければなりません。つまり、神様が良い方であることを信じることが求められます。また、神様の道こそが最善であることを信じなければなりません。

そして、今日の箇所で、ヤコブは再びこのテーマに立ち返ります。

あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。(ヤコブの手紙5:13)

何のために祈るべきでしょうか。それは、神様の知恵と助けを求めるためです。けれども、祈るときには、神様が良い方であることを信じなければなりません。そうでなければ、あなたの祈りはむなしいものとなってしまいます。(1:5-6)

とはいえ、祈りは試練の時だけに限られるものではありません。ヤコブは続けてこう言います。

喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。(13b)

苦しみの中で神様を思い出すことは、ある意味では自然なことかもしれません。けれども、順境のときはどうでしょうか。豊かさの中で、神様の慈しみに感謝しているでしょうか。それこそが信仰の姿です。

すべての良い贈り物、そして完全な贈り物は神様から来ることを忘れてはなりません。(ヤコブ 1:17)

そしてここで、ヤコブは再び試練の中での祈りについて語ります。

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。(14-15)

ヤコブは癒やしを約束していません。たとえば、パウロが祈っても、人が癒やされなかったことがあります。(第二テモテ4:20)

しかし、病気のときには、私たちは祈るべきであり、教会のリーダーたちの祈りを求めることも大切です。

オリーブ油は、おそらく聖霊様の癒やしの働きを象徴していたのでしょう。また、癒やしの塗り薬として用いられていた可能性もあります。

いずれにしても、祈りを通して私たちは神様への信仰を表します。神様の道こそが最善であることを信じ、私たちの癒やしを神様の御手に委ねるのです。

とはいえ、時として病気は罪から生じることがあります。だから、ヤコブはこう語ります。

もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。(15b-16)

この言葉を読んで、私はイエス様のある出来事を思い出します。マルコ2章では、イエス様が一人の人を癒やす前に、その人の罪に触れられました。

もちろん、すべての病気が罪から生じるわけではありません。けれども、例えば、ある人々は心の中に苦々しい思いを抱き、相手を許せないために、さまざまな健康問題を抱えてしまいます。しかし、彼らがその罪を正しく対処したとき、病が癒やされることがありました。

そのため、ヤコブは、私たちが病気になったときや困難に直面したとき、祈るべきだと語ります。祈りを通して、私たちの霊的な問題が明らかになり、癒やされるのです。

そして、ヤコブはこの教えを次のようにまとめます。

正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。(16-17)

簡単に言えば、祈りをむなしいものと考えてはなりません。普通の人であっても、神様を信じる信仰をもって祈るならば、素晴らしいことが起こるでしょう。

それは、祈りが魔法の言葉だからではありません。むしろ、私たちの神様が偉大な方であるからです。だからこそ、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちの内に、そして私たちを通して素晴らしいことを行われます。

あなたはどうでしょうか。祈りがむなしいものだと感じることはありますか。それとも、良いときも悪いときも、祈り続ける信仰を持っていますか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ10章

祈りなさい。行きなさい。

この箇所では、イエス様は12人の弟子たちだけでなく、さらに72人を派遣されました。そして彼らに以前と同じ指示を与えられました。

2~3節は私の心に深く響きます。

イエス様は以前言われた言葉を繰り返されました。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカの福音書10:2)

要するに、多くの人々の心は福音を受け入れる準備が整っています。もし私たちが彼らに福音を伝えるなら、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。

だからこそ、イエス様はこう言われます。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

けれども、それだけでは終わりません。イエス様は命じられます。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3節)

イエス様は今でも私たちに同じことを言われます。

もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望んでおられます。

とはいえ、イエス様はあなた自身をも遣わそうと望んでおられるのです。イエス様は、あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れていくことを望んでおられます。

時として、私たちは拒絶されることを恐れることがあります。しかし、イエス様は私たちにこう言われます

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

要するに、人々があなたを拒絶しても、実際には彼らはイエス様を拒絶しているのです。ですから、失望しないでください。なぜなら、必ず福音を受け入れ、救われる人がいるからです。

このようにして、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。

また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセやダビデ、ダニエルなどは、神様の御国が力をもって到来することを願ってきました。けれども、キリストが来られたことにより、私たちはその御国が人々の人生に訪れるのを目の当たりにすることができます。

それでも、私たちが行動しなければ、その力を見ることはできません。しかし、私たちが行動すると、神様の御国が訪れ、力をもって人々の人生を変える様子を目の当たりにすることができます。

カテゴリー
エゼキエル書

私たちの責任、相手の責任

私が若い頃、クリスチャンの本でこの言葉を読みました。「あなたがクリスチャンになると、神様はあなたの家族を救うと約束されます。」

そして、その著者は使徒の働き16:31から引用していました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

だから、その著者は私たちに「あなたの家族の救いのために祈ってください」と励ましました。

もちろん、私たちは家族の救いのために祈るべきです。とはいえ、私はその著者の聖書の解釈に同意することはできません。

パウロが言いたかったことは、「あなたがイエス様を信じるなら、あなたは救われます。そして、あなたの家族がイエス様を信じるなら、彼らも救われます」という意味です。

聖書の箇所の意味を理解するためには、その箇所だけを読むのではなく、その箇所に関係する他の箇所もすべて読むべきです。

例えば、コリント人への手紙第一でパウロはこう語りました。

もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。(第一コリント7:15)

なぜパウロはこのように語ったのでしょうか。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。(第一コリント7:16)

つまり、私たちは、自分の夫や妻がいつか救われるかどうか分かりません。だから、その人が離れたいのであれば、離れて行かせるべきです。

もし使徒の働きで、パウロが「あなたが救われるなら、きっとあなたの家族も救われる」と言おうとしていたのであれば、なぜパウロは第一コリントで「あなたの妻や夫がいつか救われるかどうか分からない」と語ったのでしょうか。

さらに、このエゼキエルの箇所では、神様はイスラエルを裁き、エゼキエルにこう言われました。

人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ―― (エゼキエル書14:13-14)

また、神様はこう言われました。

たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。

ただ彼ら自身だけが救い出される。(18)

この箇所では、神様はこのようなことを4回繰り返されました。「あなたは自分の義によって自分の命を救い出すだけです。」

そして、新約聖書によれば、私たちの義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものです。

パウロはこう書きました。

義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)

旧約聖書の時代でも、新約聖書の時代でも、そして現代でも、同じことが言えます。そして、私たち全員が、自分自身の決断をしなければなりません。

とはいえ、私たちには神様から与えられた責任があります。つまり、私たちは周りの人々のために祈るべきです。また、彼らに福音を伝えるべきです。

ただし、その後は彼らの救いを神様に委ねましょう。

私たちは自分の家族や友人が地獄に行くことについて考えたくはありません。しかし、それは私たちが決めることではなく、彼ら自身が決めなければならないことなのです。

それでも、次の質問を自分自身に問いかけてください。「私はできる限り、彼らのために祈り、彼らに福音を伝えているだろうか。」