以前にも言いましたが、ヤコブの手紙は、一見すると時に少し支離滅裂に見えるかもしれません。けれども、読み進めるうちに、その流れが明確になっていきます。
そして、今日の箇所では、ヤコブは第一章で取り上げたテーマの一つに戻ります。それは、試練の中での祈りです。
第一章では、ヤコブはこう語りました。試練の時に、私たちが神様の知恵を願うならば、信仰をもって祈らなければなりません。つまり、神様が良い方であることを信じることが求められます。また、神様の道こそが最善であることを信じなければなりません。
そして、今日の箇所で、ヤコブは再びこのテーマに立ち返ります。
あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。(ヤコブの手紙5:13)
何のために祈るべきでしょうか。それは、神様の知恵と助けを求めるためです。けれども、祈るときには、神様が良い方であることを信じなければなりません。そうでなければ、あなたの祈りはむなしいものとなってしまいます。(1:5-6)
とはいえ、祈りは試練の時だけに限られるものではありません。ヤコブは続けてこう言います。
喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。(13b)
苦しみの中で神様を思い出すことは、ある意味では自然なことかもしれません。けれども、順境のときはどうでしょうか。豊かさの中で、神様の慈しみに感謝しているでしょうか。それこそが信仰の姿です。
すべての良い贈り物、そして完全な贈り物は神様から来ることを忘れてはなりません。(ヤコブ 1:17)
そしてここで、ヤコブは再び試練の中での祈りについて語ります。
あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。(14-15)
ヤコブは癒やしを約束していません。たとえば、パウロが祈っても、人が癒やされなかったことがあります。(第二テモテ4:20)
しかし、病気のときには、私たちは祈るべきであり、教会のリーダーたちの祈りを求めることも大切です。
オリーブ油は、おそらく聖霊様の癒やしの働きを象徴していたのでしょう。また、癒やしの塗り薬として用いられていた可能性もあります。
いずれにしても、祈りを通して私たちは神様への信仰を表します。神様の道こそが最善であることを信じ、私たちの癒やしを神様の御手に委ねるのです。
とはいえ、時として病気は罪から生じることがあります。だから、ヤコブはこう語ります。
もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。(15b-16)
この言葉を読んで、私はイエス様のある出来事を思い出します。マルコ2章では、イエス様が一人の人を癒やす前に、その人の罪に触れられました。
もちろん、すべての病気が罪から生じるわけではありません。けれども、例えば、ある人々は心の中に苦々しい思いを抱き、相手を許せないために、さまざまな健康問題を抱えてしまいます。しかし、彼らがその罪を正しく対処したとき、病が癒やされることがありました。
そのため、ヤコブは、私たちが病気になったときや困難に直面したとき、祈るべきだと語ります。祈りを通して、私たちの霊的な問題が明らかになり、癒やされるのです。
そして、ヤコブはこの教えを次のようにまとめます。
正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。(16-17)
簡単に言えば、祈りをむなしいものと考えてはなりません。普通の人であっても、神様を信じる信仰をもって祈るならば、素晴らしいことが起こるでしょう。
それは、祈りが魔法の言葉だからではありません。むしろ、私たちの神様が偉大な方であるからです。だからこそ、私たちが神様に信頼すると、神様は私たちの内に、そして私たちを通して素晴らしいことを行われます。
あなたはどうでしょうか。祈りがむなしいものだと感じることはありますか。それとも、良いときも悪いときも、祈り続ける信仰を持っていますか。