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創世記のデボーション

始めに神。。。

どうして私たちは神様を礼拝するのでしょうか。どうして神様に信頼を寄せるのでしょうか。

その理由は、聖書の最初の言葉にあります。

「始めに神。」

その言葉を噛み締めましょう。

他のものが存在する前に、神様はすでにおられました。

存在するもののすべては、神様から生まれました。

ご自身の知恵によって、神様はすべてのものを造られました。

神様の力によって、すべてのものは造られました。

神様の思いは、私たちの小さな頭では把握できないほど多く、深いものです。

神様の力は無限です。

この方こそ、私たちが礼拝する神です。

でも驚くべきことは、この神が私たちを愛してくださることです。

だから、天使たちと一緒に歌いましょう。

聖なる、聖なる、聖なる、 主なる神、全能者。 昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。。。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。(黙示録4:8、11)

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使徒の働き

遠く離れない神

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが幼い頃、クリスマスの朝を夢見ていました。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、きっと見つけることのできるプレゼントやおもちゃのことを思い描いていました。
But we never realized a baby born one blessed night,
しかし、私たちは気づいていませんでした。ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
私たちの人生にとって最も素晴らしい贈り物であることを。

その夜、目に見えない神が、目に見える存在となりました。また、知られていない神が現れ、私たちに近づかれました。

パウロは、その真理をアテネの人々に伝えようとしました。彼らは「知られていない神」のために祭壇を設けていました。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「その神は、今や知られるようになりました。神ご自身が私たちにご自身を現してくださいました。その神はすべての神々の中の一つではなく、唯一の神です。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを創造されました。

神は天地の主であり、命を与えるお方です。

また、神はご自身の計画に従って、すべてを成し遂げられました。その目的は何でしょうか。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(使徒の働き17:27a)

そして、神様を求める人々にとって、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせとは、神様が私たちに近づいてくださり、神様を知ることができるようになったことです。

イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係を持つことができます。

神様は私たちに近づいてくださいました。だからこそ、私たちも毎日神様に近づいていきましょう。

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詩篇

裁判官が裁かれるとき

裁判所で不正義を見るとき、私たちはみなフラストレーションを感じるでしょう。有罪の人は解放され、彼らが傷つけた人はその決断によってさらに傷つけられます。

そんな問題は現代だけのものではありません。聖書の時代にも、同じような問題がありました。だから、詩篇82篇では、神様は裁判官を裁きます。

私が続ける前に、1節を少し説明した方が良いと思います。1節では、こう書いてあります。

神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。(詩篇82:1)

詩人は「神の会衆」と「神々」と言いますが、皮肉っぽく話しています。彼は本当の神々について話しているわけではありません。本当の神は一人しかいないのです。

この「神々」はイスラエルの士師たちのことです。この士師たちが神様の代表であり、人々を裁く力を持っていたので、詩人は彼らを「神」と呼びました。

もし、あなたがモルモン宣教師と話したら、彼らはこの詩篇を指摘して、「ほら、たくさんの神々が存在します。そして、あなたも神になることができます。」と言うでしょう。

けれども、この詩人はそのようなことを教えているのではありません。6節で、詩人は「おまえたちは神々になる」ではなく、「おまえたちは神々だ。」と言っています。モルモンの人でも、今彼らが神であるとは言いません。

さらに、7節で、神様はこの「神々」にこう言います。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に[ます]」。

この士師たちはただの人間であり、また、堕落している人間なので、彼らは結局死にました。その一方、本当の神は決して死にません。

さて、なぜ神様はこの士師たちを裁くのでしょうか。

2-4節で、その答えを見つけることができます。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。(2-4)

神様はこの士師に関してこう言われます。

彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。(5)

そして、詩人は本当の神に歌います。

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(8)

だから、この世の不正義を見るとき失望しないでください。ある日、神様は悪人と彼らを解放した裁判官を裁かれます。

裁判官は正しい人ではないかもしれませんが、神様は公正な方です。だから、最後の日には必ず正義が訪れます。

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イザヤ書

自分自身を神とする

昔、サタンがエデンで言った嘘を、今でも私たちに囁きます。それは、「あなたは神のようになる」というものです。

人類の歴史を振り返ると、人々は自分自身を神にしようとしてきました。つまり、自分の道を進み、心の王座を神様に捧げずに、自分自身がその王座に座るのです。

バビロンの支配者たちも同じことをしました。そのため、イザヤは彼らを責めました。

あなたは「いつまでも、私は女王でいよう』と考えて。。。

だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。

心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ。。。

あなたは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言う。

あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ。」(イザヤ書47:7、8、10)

バビロンの人々は、神様がご自身について言われた言葉を取り、それを自分自身に当てはめました。

日本語の翻訳では「私だけは特別だ」と書かれていますが、それは少し簡略化された翻訳です。

実際には、バビロンの人々が「私は特別だ」と言ったとき、それは神様の言葉を模倣していたのです。

つまり、

わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。(イザヤ書41:4)

また、

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45:5)

また

わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46:9)

しかし、イザヤは彼らに警告されました。

「あなたたちは神ではない。あなたの罪のために裁きが来る。あなたの知恵と力は、神様の怒りからあなたを救うことはできない。」

それでも、どれほど私たちはバビロンの人々のように生きているでしょうか。

私たちは安全だと思い込み、安心してしまいます。自分の道を進み、それで大丈夫だと思い込みます。誰も私たちの罪を見ていないと考え、将来の裁きについて全く思いを巡らせません。

そのような生き方を続けるなら、バビロンの人々のように私たちは倒れるでしょう。私たちは神様の前で裸で恥ずかしい姿のまま立つことになります。

そして、この世の中で、経済問題や結婚生活の問題が生じ、私たちはどうしたら良いか分からなくなるでしょう。

だからこそ、プライドを捨て、心の王座を神様にお捧げしましょう。ただお一人の神様がおられます。そして、その神様は私たちではないのです。

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イザヤ書

ほかの神はいない

イザヤ書43-44章では、神様はその民にこの真理を教え込んでおられます。「私だけが神です。他に神はいないのです。」

43章には、次のように書かれています。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。

これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(イザヤ書43:10-11)

そして、44章でも、神様は同じ真理を語られます。

わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ書44:6)

多くの人々は、クリスチャンが偏狭な人々だと思います。それは、私たちが他の神が存在するという考えを受け入れないからです。しかし、もしクリスチャンが正しいなら、それは本当に偏狭な態度と言えるのでしょうか。

例えば、もし私が娘に「2+2=4」と言い張ったとしたら、それは偏狭さを表しているでしょうか。

そうではありません。ただ、真理を語っているだけです。

同じように、この聖書の箇所では、神様は何度も、さまざまな方法で、ご自身の唯一性と独特さをイスラエルの民に教えられています。

まず、神様はこう言われました。

わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。

あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。(イザヤ書44:8)

神様はご自身の預言を指されます。何度も神様はイスラエルの民に将来の出来事を預言し、その言葉の通りにそれが実現しました。

さらに、神様はご自身の知識について語られます。神様はこう言われました。「私はすべてを造りました。この世界も、また宇宙も造りましたが、私は他に神を知りません。」

イザヤ書43章では、神様はこう言われます。「私は他の神を造らなかった。また、私より先に造られた神はない。」

そして、44章12-20節では、神様はイスラエルの民にこう語られます。

「考えてみなさい。あなたたちは木材で偶像を造ります。しかし、その木材の残りを使って、自分自身を温めるために燃やします。また、その木材の残りで料理を作ります。それでも、その同じ木材で作った偶像を拝むのですか。

あなたはその偶像の創造者です。それにも関わらず、その偶像に助けを求めるのですか。創造されたものが創造者よりも偉いでしょうか。」

だから、神様はこう言われます。

ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。

わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21-22)

神様がイスラエルの民に語られたのと同じことを、私たちにも語っておられます。

「私だけが神であることを思い出しなさい。私はあなたの創造者です。私はあなたの贖い主です。私のもとに戻ってきなさい。なぜなら、十字架で、あなたの罪のために私は代価を支払ったからです。」

神様だけが真の神であることを心に刻みましょう。他に神はいないからです。