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サムエル記第一のデボーション

本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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マタイの福音書のデボーション

どんな弟子を育てているのか

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。

おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。

そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。(マタイの福音書23:15)

弟子作りに関して言えば、パリサイ人と律法学者が悪い手本であることは言うまでもないと思います。

でも、イエス様の言葉を読んだとき、私は考えました。

「神様は娘と他の人々を私に委ねてくださったけど、私はどんな弟子を作っているのだろうか。」

私は、重くて負いきれない荷を束ねて彼らの肩に載せて、ただ「頑張れ」と言ったことがあるでしょうか。

それとも、彼らは正義と誠実だけではなく、あわれみも知っているでしょうか。(マタイの福音書23:23)

彼らは、私の中にそのあわれみを見ているでしょうか。また、彼らへの神のあわれみを知っているでしょうか。

彼らは、そのあわれみを知って、安心しているでしょうか。そのあわれみを喜んでいるでしょうか。

そして、彼らは回りの人々にあわれみを与えているでしょうか。

それとも、彼らは常に自分に厳しすぎ、回りの人々に厳しすぎるのでしょうか。

天のお父さん、私の娘や妻、そして私の回りの人々が私を見るとき、私は彼らに正義の人、誠実な人を見てもらいたいです。

でも、それ以上に、あわれみ深い人を見てもらいたいです。彼らには、あなたのあわれみの中を歩み、回りの人々をあわれむ人を見てもらいたいです。

私が、あなたのあわれみの中を歩む弟子、回りの人々をあわれむ弟子を育てる者となるように、私を助けてください。

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出エジプト記のデボーション

神様の御怒りとあわれみ

今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。

実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:14ー16)

今日、この箇所は私の心を打ちました。神様は裁きをエジプト人たちに注がれましたが、彼らをあわれんでくださいました。

神様は一瞬で彼らを滅ぼすことができましたが、そうされませんでした。

さらに、彼らの命を守るために、雹に関する警告を与えられました。(19)

神様は人々の罪のために御怒りを注がれますが、人々をあわれんでくださいます。

なぜでしょうか。それは、人々が神様を知り、悔い改めることを望まれているからです。

ファラオは傲慢で、モーセに言いました。「私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

それゆえ、神様はご自身がどのような方であるかをファラオに現されました。

つまり、神様は正義の神であり、罪を罰される方です。そして、主はあわれみ深い神であり、主を恐れる者をあわれまれる方です。

私にとって興味深いことは、神様の言葉がラハブの人生に成就したことです。

神様はファラオを生かし、紅海を分け、ご自身の力と御名を周囲の国々に現されました。

その結果、ラハブとその家族は救われました。(ヨシュア記2:8–14、6:25)

ですから、神様が紅海で御怒りをファラオとその軍隊に注がれたことによって、ラハブとその家族は神様のあわれみを受けました。

さらに、ラハブはイエス様の系図に加えられました。(マタイ1:5)

ある意味で、神様はすべての人々をあわれんでくださいます。つまり、神様はこの瞬間、私たちを滅ぼされないということです。しかし、私たちが悔い改めてこそ、救いに至るあわれみを受けるのです。

神様は私たちに警告を与えられます。神様は私たちに悔い改める時間を与えてくださいます。

あなたはどうされますか。

神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)