ペテロは、夫婦や奴隷たちがどのように神様のしもべとして生きるべきかについて語った後、私たち全員に向けて話を続けます。
まず、ペテロは私たちの人間関係について話します。
最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(ペテロの手紙第一3:8)
その言葉を読むと、イエス様の言葉を思い起こさせます。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)
第一ペテロ3:8では、ペテロがイエス様の言葉をさらに深めて膨らませているように思います。
異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)
しかし、クリスチャンたちが常に喧嘩しているならば、自分たちの証しを失墜させてしまいます。
その後、ペテロは、クリスチャンたちが神様のしもべとして、苦しみや迫害にどのように反応すべきかというテーマに戻ります。
私たちは、この世の模範に従って苦々しい思いを持ったり、相手に復讐したりしてはいけません。その代わりに、私たちは相手を祝福するべきです。(ペテロの手紙第一3:9)
その言葉もまた、イエス様の言葉に似ています。
あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:28)
また、ペテロによれば、私たちが相手を祝福すると、私たちは神様の祝福を受け継ぎます。だからこそ、私たちは悪に対して悪を返してはいけません。(ペテロの手紙第一3:9)
さらに、ペテロは詩篇34篇を引用しています。簡単に言えば、私たちは自分の言葉遣いに注意し、悪を避け、平和を追い求めるべきだと教えています。(10-12節)
それは簡単なことではありませんでした。特に、ペテロの時代では、それは非常に困難なことでした。ネロ皇帝は宴席の場でクリスチャンたちに火をつけ、彼らをトーチとして使いました。ペテロ自身もまた、ネロの命令によって十字架にかけられました。
それでもなお、ペテロはこう言いました。
たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14節)
そして、ペテロはこの箇所の核心を伝えます。
むしろ、心の中でキリストを主とし(なさい)。(15節)
どうして奴隷たちは悪い主人たちに耐えなくてはならないのでしょうか。
どうして妻たちは自分の夫に従うべきなのでしょうか。
どうして夫は自分の妻を敬うべきなのでしょうか。
どうしてクリスチャンたちは互いに愛し合うべきなのでしょうか。
そして、どうして私たちは迫害されるときに悪に背を向け、相手を祝福するべきなのでしょうか。
それは、イエスが私たちの主だからです。そしてペテロは、私たちがイエス様を主とするように訓戒しています。
私たちは、自分が主のしもべであることを心に留めていなくてはなりません。そして、イエス様のしもべとして、私たちはイエス様の光をこの世に照らすべきです。
けれども、自分勝手に生き、神様の御国のためではなく、自分の目的と計画を果たすために生きるならば、私たちはその光を照らすことはできません。
だからこそ、私たちが苦しみや迫害に直面するとき、ペテロは私たちにこう言います。
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。
そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(15b-16節)
私たちがキリストのしもべとして生き続けるならば、最終的に周りの人々は、なぜ私たちがそのように生きるのかを疑問に思うでしょう。たとえ私たちを迫害する者たちであっても、その理由を尋ねてくるかもしれません。
彼らがそう尋ねるとき、私たちには彼らを神様の御国へと導く機会が与えられるのです。
しかし、自分勝手に生きているならば、そのような機会を決して見出すことはできません。だからこそ、ペテロはこう言います。
神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)
もちろん、苦しみたいと願う人は誰もいません。けれども、自分の罪のためではなく、神様のしもべとして苦しむならば、私たちは神様の御国が広がるのを目の当たりにし、最終的には神様が私たちに報いを与えてくださるのです。
あなたはどうでしょうか。何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。