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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし(2)

前回の記事では、私たちが見たのは、神の子どものしるしが義であるということです。れっきとした神の子どもたちは、清くなりたいと願います。なぜなら、彼らが愛するイエス様が清い方だからです。

そして、罪に陥ったとき、彼らはその罪を後悔し、すぐに悔い改めます。

私が初めて汚い言葉を口にした時のことを、今でもよく覚えています。そのとき私は中学生で、意図的にそうしたことを覚えています。しかし、その後、私は罪悪感に駆られ、それ以来、二度とそのような言葉を使ったことはありません。

おそらく、その罪悪感を感じた理由は、私が神の子どもだからでしょう。本当のクリスチャンがあえて罪を犯す習慣を持つことはあり得ません。また、罪を犯すときには、本当のクリスチャンはすぐに悔い改めるはずです。

それでも、クリスチャンが罪を犯すこともあります。だからこそ、ヨハネは私たちにこう促します。

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。(ヨハネの手紙第一2:28)

どうやって、私たちはイエス様のうちにとどまることができるでしょうか。ヨハネは3章の最後で教えています。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。

神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(3:23-24)

ようするに、イエス様が現れるとき、確信を持って恥じることのないようにしたいのであれば、神様に従わなくてはなりません。また、神様の言葉に従わなくてはなりません。

神様は私たちに何を命じたのでしょうか。一番大切な命令は、イエス様を信じることです。私たちは自分の救いのためにイエス様を信じる必要があります。

実は、その信仰こそクリスチャンの最初のしるしです。人間の根本的な問題は、私たちが神様に背を向け、「私は自分の道を行く。私は自分のために生きる」と言うことです。

しかし、人がクリスチャンになると、その人の最初の決断は、その考え方を捨てることです。むしろ、その人はこう言います。「主よ。私の道ではなく、これからはあなたの道を行きます。」

その最初の段階は、神様がイエス様を通して与えてくださる救いの賜物を受け取ることです。その人は、自分の努力やほかの宗教によって救いを得ようという態度を捨てます。むしろ、その人は自分の救いのためにイエス様とその十字架の働きを信じます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(3:10)

どうしてヨハネは、兄弟を愛するという命令を強調するのでしょうか。

一つの理由は、その命令がキリスト教のメッセージの中心であるからです。ヨハネはこう言います。

互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。(11)

それは上級者向けのキリスト教の教えではありません。それは初心者のための教えです。

さらに、私たちが本当にイエス様の愛を知っているなら、その愛は自然と私たちから流れ出るはずです。

ヨハネはこう言っています。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(3:16)

だからこそ、れっきとしたクリスチャンの確かなしるしは、周りの人々に対する愛です。

ヨハネはこう言います。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(3:14-15)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どものしるしを持っているでしょうか。

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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし

どうすれば、自分が本当に神の子どもであると分かるでしょうか。どうすれば、自分が確かに救われていると確信できるでしょうか。

私は7歳のときに救われましたが、長い間、自分が救われているのかどうかを疑っていました。

けれども、今日の箇所で、ヨハネはその疑問に答えています。

あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。(ヨハネの手紙第一2:29)

原語では、そのニュアンスは、神の子どもがいつも義を行うという意味ではなく、むしろ義を行うことがその人の習慣であるということです。

言い換えると、もしあなたが本当に救われているなら、あなたの人生は義によって特徴付けられているはずです。周りの人々があなたを見ると、信仰を実践して義を行う人として映るでしょう。

これに対して、この世の人々の生活は全く異なります。だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(ヨハネの手紙第一3:1)

私たちが神の子どもとして、自分の信仰を実践し、義を行うと、この世の人々は私たちを見て戸惑うでしょう。彼らはなぜ私たちがそのように生きているのかを理解できません。なぜなら、彼らは神様を知らないからです。

もし彼らが神様を知らないのなら、私たちのことも理解できないはずです。

ヨハネは続けてこう言います。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(3:2)

神の子どもとして、私たちが義を行う動機は何でしょうか。私たちは天国を得るためにそうしているのでしょうか。私たちは周りの人々に感動を与えようとしているのでしょうか。

そうではありません。むしろ、ヨハネによれば、私たちの動機は神様に対する愛です。神様はご自身の愛を私たちに豊かに注ぎ、私たちをご自身の子どもと呼んでくださいます。

さらに、私たちはいつか愛するイエス様のようになる希望を持っています。イエス様が再びこの世に来るとき、私たちは新しい体を受けます。その体はイエス様の栄光を反映し、私たちは完全に義人となります。

ある人々はこう考えます。「どうして罪と戦わなくてはならないのだろう。私はその罪を決して克服できないだろう。」

ところが、あなたがクリスチャンなら、その考え方は間違っています。ある日、あなたは完全になるのです。私たちには希望があります。

ヨハネによれば、真の信者たちはその希望を持っているので、キリストが清い方であるように、自分も清くなりたいと思います。(3:3)

れっきとしたクリスチャンであるなら、皆そのように考えます。イエス様のように清くなりたいと思わないのであれば、自分がクリスチャンであると主張できるでしょうか。

ヨハネによれば、イエス様は罪を取り除くためにこの世に来られました。また、イエス様のうちには罪がありません。(5)

さらに、イエス様は悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来られました。(3:8)

だから、人々が自分がクリスチャンであると自称しながら、あえて罪を犯し、イエス様が打ち破ろうとしているわざを推進するのはどうしてでしょうか。それはあり得ないことです。私はその人の救いを本当に疑います。

あなたはこう言うかもしれません。「ブルース、それは言い過ぎだ。人を裁いてはいけない。」

けれども、ヨハネの言葉を読んでみてください。

キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一3:6-8)

また、

神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9節)

もう一度私は言います。ヨハネが意味しているのは、れっきとしたクリスチャンが決して罪を犯さないということではないのです。

それでも、れっきとしたクリスチャンは罪を犯したとき、すぐに後悔するはずです。彼らは悔い改め、その罪を避けたいと願うのです。

だから、ヨハネはこの話をこのようにまとめます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(10節)

あなたは誰の子どもですか。