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サムエル記第二のデボーション

正義?

「ダビデは神のみ心に従ったでしょうか。」

今日の箇所を読んだ時、私はそう思いました。

サウルはギブオン人たちとの条約に違反して、多くのギブオン人を殺していました。(ヨシュア記9:3〜17)

そのゆえ、イスラエルの土地は霊的に汚され、飢饉が起こりました(民数記35:30〜34)。

その飢饉は三年間続き、ダビデは神様のみ顔を求めました。そして、神様はその飢饉の理由を明らかにされました。

ところが、そのあと、この話は少し霊的に濁ります。

ダビデはギブオン人たちに、何の償いを求めるか尋ねました。

彼らは、サウルの子孫7人を処刑するために引き渡してほしいと願いました。ダビデはその願いを叶えました。

しかし、ダビデは正しいことをしていたのでしょうか。

神様の律法によれば、殺人者の血以外によって土地は宥められることはありませんでした。(民数記35:33)

さらに、その律法によれば、子が父の罪のために殺されてはならなかったのです。(申命記24:16)

最後に、神様は、殺人者がすでに亡くなっている場合については何も命じておられませんでした。

けれども、殺人者が見つからない場合についての戒めはありました。それは、いけにえと祈りによって、その罪が赦されるということです。(申命記21:1〜9)

もしかすると、サウルの場合、神様は少し違う指示を与えられたかもしれませんが、おそらく似たような戒めを与えられたでしょう。

しかし、ダビデは神様にどうすればよいかを尋ねませんでした。

皮肉なことに、ヨシュアも初めてギブオン人たちに出会ったとき、同じような過ちを犯していました。(ヨシュア記9:14)

神様の恵みによって、その飢饉は終わりました。

それでも、ダビデの行為が神のみ心にかなっていなかったことを示唆するものがあるでしょうか。

私は、その示唆があると思います。

つまり、サウルの子孫が殺された後も、その飢饉はしばらく続いたということです。

実は、もう一つの違反がありました。神様の律法によれば、かけられた死体は翌日まで木に残されてはならなかったのです(申命記21:22〜23)。

その死体が埋葬されて初めて、飢饉は終息しました。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

私たちは神のみ言葉をよく知っているでしょうか。何が神様を喜ばせるか、喜ばせないかを知っているでしょうか。

もし私たちが神のみ言葉を知らなければ、良い意図があっても、神様を喜ばせないことをしてしまうかもしれません。

だからこそ、毎日神のみ言葉を読み、学びましょう。

その言葉によってのみ、私たちは神様をどのように喜ばせることができるかを知ることができます。

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ローマ人への手紙のデボーション

神の律法の弱点

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ人への手紙8:3ー4)

今週、ヤイロの娘と長血をわずらっている女の人の話を考えていました。(マルコ5章)

私が気づいたのは、神様の律法は、死体や長血をわずらっている女の人を汚れているものと呼ばれるということです。(レビ記15:25ー32;民数記19:11ー13)

また、律法によれば、汚れているものに触れる人自身も、汚れているものになりました。

でも、律法ができなかったのは、汚れているものを清めることです。

律法はその女の人を癒すことができなかったし、ヤイロの娘を復活させることもできませんでした。

でも、律法ができなかったことを、イエス様はしてくださいました。イエス様はその女の人を癒し、ヤイロの娘を復活させてくださいました。そうすることで、イエス様はその女の人とヤイロの娘を清めてくださいました。

そのように、神様の律法は罪を汚れているものと呼び、罪に触れる人を汚れているものと呼ぶことができました。でも、律法は私たちを清めることができないし、私たちに命を与えることもできません。

それは、律法の弱点です。

でも、律法ができないことを、イエス様はしてくださいました。イエス様は十字架で死んでくださって、私たちの罪を清め、私たちに命を与えてくださいました。

私たちがしなくてはならないのは、一つのことだけです。ヤイロとその女の人のように、イエス様を信じることです。

彼らの信仰によって、その女の人とヤイロの娘は救われました。そのように、私たちの信仰によって、私たちも救われました。

だから、パウロと一緒に喜びましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)

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出エジプト記のデボーション

律法の精神を求めて

出エジプト記やレビ記の律法を読むとき、「この律法は私に本当に関係あるのか」と思うのは簡単なことです。

例えば、4〜5節をちょっと読んでみましょう。

あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4-5)

どれぐらい、私たちはそんな状況に遭遇するでしょうか。多分、そんな状況に遭遇することはないでしょう。

でも、その律法の文字だけではなく、その原則をも考えた方がいいです。

上記の律法の原則は何でしょうか。

イエス様は、こう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。。。

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。

そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。

いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルか6:27ー28、35ー36)

だから、旧約聖書にある戒めを見るとき、その文字だけではなく、その精神をも考えましょう。

そして、神様に「この言葉を通して、あなたは私に何を教えたいのですか」と祈りましょう。