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サムエル記第一のデボーション

自分が良いと思う通りに生きる?

すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(サムエル記第一14:36)

そのことばを読んだとき、昨日の説教を思い出しました。

私の牧師は、すべてのことを神様の支配下に置くことの大切さを語っていました。つまり、好き勝手に行動するのではなく、神様を求め、御心に従うことです。

サウルはそうしなかったため、最終的に彼の統治は崩れてしまいました。

しかし、自分が良いと思う通りに行動してしまうのは自然なことです。好き勝手に時間やお金を費やすのは簡単ですし、自分の目に良く見えることをすぐに選んでしまいます。

けれども、それは神様の支配下に生きている姿ではありません。

だからこそ、神様は私にこう語っておられると思います。「決断するときに、わたしのこころをもっと求めなさい。」

特に、経済のことをもっと考えなければなりません。献金だけでなく、私の経済全体を神様の支配下に置くべきです。自分が良いと思う通りにお金を使うのではなく、神様の御心に従って用いるべきです。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神のみこころ

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一4:3)

今朝、その言葉が私の目に留まりました。なぜなら、「これが神のみこころ」とはっきりと語る聖書箇所は、それほど多くないからです。

私をはじめ、多くのクリスチャンたちは「神様のみこころを知りたい」と言います。

その言葉の背景には、誰と結婚するべきか、どのような進路をたどるべきかといった問いがあることが多いです。

でも今朝、神様は私に思い起こさせてくださいました。「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

パウロはこの文脈で主に性的な聖さについて語っています。彼の時代も、私たちの時代と同じように、それが大きな課題だったからです。

しかし、聖なる者となることは、性的な聖さだけに限られるものではありません。私たちの愛、言葉、思い—それらすべてにおいて、イエス様のようになることです。

だから今日、神様が私の心の中で取り組んでおられる課題について考えています。

その取り組みと格闘しながら、私は自分自身に、私を愛してくださるアバの言葉を思い起こしています。

「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

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ヨシュア記のデボーション

通ったことがない道をたどっているから

あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。。。

ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。(ヨシュア記3:3ー4、9)

今日の箇所を読んでいると、最近暗記した詩篇のことを思い出しました。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

カナンに入るとき、イスラエルの人々がその歌を歌っていたことを想像できます。 しかし今、その歌は私の祈りでもあります。 未来は、私が一度も通ったことのない道です。知らないことが多すぎます。

さらに、サタンは私に見えない多くの罠を仕掛けようとします。 けれども、神様は先の道をよくご存じです。

だから私は、神様に近づきたいです。神様に近づかなければならないのです。 神の御ことばに耳を傾けるために、 神の御心を知るために、 そして、毎日毎日、一瞬一瞬、御霊に導かれるためです。

そのような歩みは、どうすれば実現できるのか、正直に言うと、私はまだその途上にあります。 しかし、私は毎日祈りつづけています。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ、私を敵から救い出してください。私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8ー10)

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出エジプト記のデボーション

天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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ペテロの手紙第一のデボーション

神の御心のために生きる

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。。。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(ペテロの手紙第一3:18,4:1-2)

日曜日に、私の牧師は、私たちの世界観、私たちのパラダイムを変えることについて話しました。多分、最大のパラダイムシフトは、私たちが誰のため、何のために生きるのかということです。

ペテロは、はっきりと言います。私たちの罪との契約は解除されました。私たちが罪の力と罰から自由になるため、イエス様は死んでくださいました。

だからこそ、私たちのパラダイムは、もはや自分の心、つまり、罪に導く自分の本能、感情、欲望に従うのではありません。むしろ、私たちは、御子を遣わすほどに私たちを愛してくださっている神のために生きているのです。

だから、ペテロは「心を整え、身を慎みなさい」と言います。私たちは、毎日毎日、一瞬一瞬、神の御心、知恵、力を求めるべきなのです。(第一ペテロ4:7)

でも、一人ではなく、神の民と一緒にするべきです。なぜなら、時々、私たちは油断して罪に陥ってしまうからです。でも、兄弟たちと姉妹たちの愛によって、私たちは癒され、立ち戻ることができます。

だから、ペテロは言います。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(第一ペテロ4:8)

多分、ペテロは自分の経験を考えていました。彼も油断して、罪に陥ってしまいました(マルコ14:37、66〜72)。でも、イエスの愛によって、彼は立ち直ることができました。

だから、イエスのパラダイムを取り上げましょう。自分の心に従うのではなく、私たちを深く愛してくださっている天の父の御心に従いましょう。でも、一人ではなく、神の民と一緒にそうしましょう。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の御心を悟る

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。

知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。

ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。(エペソ人への手紙5:15-17)

天のお父さん、この世界を歩むとき、私があなたの御心の大局を心に留めることができますように。あなたの御心は、すべてのものが御子の支配下に集められることです。(エペソ1:9〜10)

それは、私を含み、私の周りの人々を含み、被造物の全体を含みます。

しかし、あなたの御心の大局を心に留めながら、あなたが今日、私に何を望んでおられるのかを理解することができますように。

周りの人々に触れる、あなたが与えてくださる機会を見いだすことができますように。私がサタンの捕虜を救い出し、あなたの御国へ導くことができますように。彼らに対する、あなたのあわれみ深い心を私に与えてください。

私が毎日、あなたの愛のうちに歩むことができますように。そして、あなたが与えてくださる機会を十分に活かすことができますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちのための神のみ心

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5:16ー18)

多くのクリスチャンたちは、「私のための神の御心は何だろうか」とよく尋ねます。

この箇所でパウロは、神の御心のすべてを教えているわけではありませんが、神様が私たちにどのように生きることを望んでおられるのかを示しています。それは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」ということです。

しかし、私たちの人生はいつも楽しいものではありません。私たちはしばしば試練に直面します。

では、どうすれば私たちはいつも喜び、すべてのことにおいて感謝することができるでしょうか。苦しいとき、何を喜び、何に感謝することができるでしょうか。

私たちは、神様が私たちをどのように見てくださっているかを思い起こし、それに感謝し、喜ぶことができます。つまり、神様が私たちをご覧になるとき、ご自分の似姿を見ておられるのです(創世記1:26ー27)。

また、私たちは神の祭司とされ、神様は私たちに「主の聖なるもの」という言葉を記してくださっています(出エジプト記36:28;申命記7:6;14:2;第一ペテロ2:5、9)。

そして、神のもの、神の祭司、神の民、神に愛されている子どもとして、私たちはいつでも神様の御前に出ることができます。神様が私たちを拒まれる恐れはまったくありません。

良いときでも、悪いときでも、勝利のときでも、苦しみのときでも、私たちは大胆に天の父に近づくことができます。

これこそが、私たちのための神の御心です。つまり、私たちが一瞬一瞬、神様と共に歩み、神様との関係を喜ぶことです。

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民数記のデボーション

本当に神様を求めているのか

バラムとバラクは、本当に敬虔な人々のように聞こえましたね。

「主にお会いして、その御言葉を求めます。」

「はい、わかりました。主の御言葉を待ち望みます。。。では、主は何をお告げになりましたか。」(民数記23:15-17)

しかし、神の御言葉を聞いて、バラムとバラクは怒りました。

神様がイスラエルを呪うことを拒まれたとき、バラクは怒りました。

バラムは、バラクに報酬を受けたかったので、切実に神様がご自身の考えを変えてくださることを願いました。けれども、神様はどうしてもそうされませんでした。(19節)

どれほど、私たちはバラクとバラムのように振る舞っているでしょうか。

私たちは、神様の御言葉を求めていると言いながら、神様が語られるとき、その言葉を受け入れません。

神様の御言葉が気に入るときだけ、その言葉を受け入れるのでしょうか。

それとも、その御言葉が気に入らないときにも、その言葉に従うのでしょうか。

私たちは、神様が自分たちの意思に従ってくださることを望んでいるのでしょうか。

それとも、私たちは神様の御心に従うのでしょうか。