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マタイの福音書のデボーション

イエス様が杯を飲み干されたから

イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。(マタイの福音書26:42)

このイエス様のことばを読んだとき、私は過越の祭りの意味を思いめぐらしていました。

神様がエジプトを訪れられたとき、その裁きと御怒りはイスラエルの民を過ぎ越しました。

しかし、イエス様が認めておられたのは、神の裁きと御怒りの杯は、ご自身をただ過ぎ去ることはできないということでした。

なぜでしょうか。

イエス様は罪のない方でした。なのに、なぜその杯を飲まなければならなかったのでしょうか。

それは、本来なら私たちがその杯を飲まなければならなかったからです。私たちは神様の裁きと御怒りにふさわしい罪人だからです。

神の裁きと御怒りが私たちを過ぎ越す理由は、まさに十字架でイエス様がそれらを薄められることなく飲み干してくださったからなのです。

それを思うとき、本当に不思議で、深い恵みだと感じます。