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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

平和の神

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23~24)

今日、「平和の神」という言葉を思い巡らしていました。

第4章3節で、パウロはこう語りました。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

そして、今日の箇所では、パウロは神様が私たちの人生にその聖さをもたらしてくださるように祈っています。

ときには、そのプロセスに神の懲らしめが含まれることもあります。そして、その懲らしめが苦しいときもあります。

それでも、神様が私たちをにらんでおられると考える必要はありません。神様は平和の神です。私たちは神様との平和をもっているのです。

だから、神様が私の人生の中で取り組んでおられる課題を考えるとき、私は自分をその真理に染み込ませています。

「神様は私に怒っておられません。私は神様との平和をもっているのです。」

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出エジプト記のデボーション

神様の御怒りとあわれみ

今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。

実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。

しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:14ー16)

今日、この箇所は私の心を打ちました。神様は裁きをエジプト人たちに注がれましたが、彼らをあわれんでくださいました。

神様は一瞬で彼らを滅ぼすことができましたが、そうされませんでした。

さらに、彼らの命を守るために、雹に関する警告を与えられました。(19)

神様は人々の罪のために御怒りを注がれますが、人々をあわれんでくださいます。

なぜでしょうか。それは、人々が神様を知り、悔い改めることを望まれているからです。

ファラオは傲慢で、モーセに言いました。「私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

それゆえ、神様はご自身がどのような方であるかをファラオに現されました。

つまり、神様は正義の神であり、罪を罰される方です。そして、主はあわれみ深い神であり、主を恐れる者をあわれまれる方です。

私にとって興味深いことは、神様の言葉がラハブの人生に成就したことです。

神様はファラオを生かし、紅海を分け、ご自身の力と御名を周囲の国々に現されました。

その結果、ラハブとその家族は救われました。(ヨシュア記2:8–14、6:25)

ですから、神様が紅海で御怒りをファラオとその軍隊に注がれたことによって、ラハブとその家族は神様のあわれみを受けました。

さらに、ラハブはイエス様の系図に加えられました。(マタイ1:5)

ある意味で、神様はすべての人々をあわれんでくださいます。つまり、神様はこの瞬間、私たちを滅ぼされないということです。しかし、私たちが悔い改めてこそ、救いに至るあわれみを受けるのです。

神様は私たちに警告を与えられます。神様は私たちに悔い改める時間を与えてくださいます。

あなたはどうされますか。

神は言われます。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)