「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。
また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。。。」
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。(使徒の働き13:38ー39,43)
「神の恵みにとどまりなさい。」
多くのクリスチャンは、神様との関係が「神様を喜ばせるための自分の努力」によって成り立っていると誤解しています。
ユダヤ人たちも同じように考え、神の律法を守ろうと懸命に努力しました。
けれども、彼らはその律法を完全に守ることができず、罪悪感に苛まれ、神の基準に達することができないと感じていました。神様に受け入れられるためには、もっと頑張らなければならないと思い込んでいたのです。
あなたも、そう感じたことがあるかもしれません。
しかし、パウロとバルナバが語った福音はこうです── 「イエス様を信じるなら、神様はあなたを義と認めてくださる。」
その義は、あなたの努力や忠実さに基づくものではなく、イエス様の十字架の御業と、あなたに対するイエス様の忠実さに基づいています。
それこそが、私たちの希望です。
私たちが神様に忠実でない時でも、神様は変わることなく、私たちに忠実でいてくださいます。
そして、サタンが火矢を放ち、「あなたは不十分だ。神の基準には到底届かない」と責めるとき、神の忠実さこそが、その火矢をすべて消し去る私たちの盾となるのです。
パウロとバルナバは、新しく信仰に入ったクリスチャンたちに「神様に受け入れられるために、もっと頑張りなさい」とは言いませんでした。
彼らはこう語ったのです── 「あなたがたはすでに神の恵みを受けています。その恵みにとどまりなさい。その恵みに安心しなさい。そして、その恵みによって、イエス様と共に進み、歩み続けなさい。」
もしかすると、彼らはイエス様の言葉を思い起こしていたかもしれません:
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28ー30)
