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詩篇のデボーション

イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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詩篇のデボーション

私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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ルツ記のデボーション

安息を得るために

姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」(ルツ記3:1)

今日、神様の安息について思いを巡らせていました。

ルツは、ある意味で安息を見つけました。ナオミ、そして特にボアズに信頼を寄せることで、身の落ち着き所となる安息を得たのです。

もしボアズがそれほど善良な人でなければ、その夜、ルツは本当に困っていたことでしょう。

しかし、彼女はボアズが善良な人であることを信じていたので、やがて安息を見出すことができました。

ルツの態度とは対照的に、士師の時代のイスラエルの民は神様に信頼を寄せることを拒み、何度も安息を失いました(士師記1:18~19、2:11~12、3:30~4:2、5:31~6:2)。

ところで、聖書では、「買い戻し」と訳される語は(ルツ3:9)、神様に当てはめるとき、「あがない」と訳されます。

つまり、ルツは自分の「あがない主」であるボアズを信頼しましたが、イスラエルの民は自分の「あがない主」である神を信頼しなかったのです。

今、私は安息を失った人々のことを考えています。彼らが安息を失ったのは、あがない主が良い神であることを信じなくなったからです。

私はその模範に倣いたくありません。

ルツのように、私は自分のあがない主が良い方であり、その約束が確かであることを信じる道を選びます。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…(2)

今日、ルツ記1~2章をさらに読んで、私たちの感情と真理の違いについて考えていました。

第1章で、ナオミはどのように感じていたでしょうか。

彼女はこう言いました。

「主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられた。」

でも、真理は何だったのでしょうか。

「神様は私に御恵みを惜しまない主です。」

私はただ自分の感情に従いたくはありません。それは抜け出しにくい痛みのサイクルにつながります。

私は神の愛に根差し、みことばの剣を振るって、こう宣言したいのです。「でも、真理は…」

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」(ルツ記2:20)

この章では、ナオミの態度はまったく違いますね。

第1章では、ナオミは苦々しい思いを抱いて、「主が私を卑しくし、辛い目にあわせられた」と言いました。(ルツ記1:13、20~21)

でも、第2章では、彼女は真理に目を開かれるようになりました。さまざまな煩いがナオミに訪れても、神様が彼女を決して捨てられることはありませんでした。それどころか、神様は彼女を深く愛しておられました。

あなたは今、ナオミのように痛みのサイクルに陥っているかもしれません。

神様があなたを辛い目にあわせていると思うかもしれません。

神様があなたを見捨てられたと感じるかもしれません。

でも、真理はこうです。神様は良い方で、あなたを深く愛しておられます。

だから、神様から離れるのではなく、神様の翼の下に身を避けようとするなら(12節)、あなたもやがてその真理に目が開かれるようになるでしょう。

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イザヤ書のデボーション

なぜ、あなたは私をそんなにも愛してくださるのですか

イエス様、あなたはこの世に来られたとき、私たち人間のようになられました。あなたは、美男子ではなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。

あなたは、人々から退けられることも、病をも経験されました。

そして、あなたは刺されました。あなたは砕かれました。十字架にかけられるまでに、あなたの姿は人とは思えないほどに、打たれました。(イザヤ52:14)

そのすべては、私のためでした。私の背きのために、あなたは刺され、打たれました。私の咎のために、あなたは砕かれました。

私が天の父と平和を持つことができる理由は、あなたが私のために罰せられたからです。そして、あなたの打ち傷のゆえに、私の罪によって壊れた人生は癒されました。

私は、さまよった羊のようでした。私は、自分勝手な道に向かって行ったのです。でも、良い羊飼いのように、あなたは私を探し求めてくださいました。

私は、神様に罰せられて当然でしたが、あなたは、私の罰を受け取ってくださいました。

あなたに十字架を強いた者は、誰もいませんでした。あなたは、自ら望んで、自分のいのちを死に明け渡されました。あなたは、私の罪を負ってくださいました。そして、今なお、あなたは私のために、とりなしをしてくださっています。

「父よ、彼をお赦しください。彼は、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様、あなたが十字架で私の罪を負ってくださったおかげで、私は天の父の御前に立ち、義と認められます。

あなたは、苦しみと死を経験されましたが、よみがえられました。そして、あなたの死によって救われた私たちを見るとき、あなたは満足しておられます。

あなたの恵みに、畏敬の念を抱いています。どうして、あなたは私をそんなにも愛してくださっているのでしょうか。

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詩篇のデボーション

心を神様に開く

自分の物の見方によって、詩篇139篇は心強いものかもしれませんし、もしかしたら、怖いものかもしれません。

なぜなら、この詩篇によれば、神様は私たちのことを隅々まで知っておられるからです。神様は、私たちの思いや言葉や行為のすべてを知っておられます。

もし、私たちを本当に愛してくださる神のイメージを持っていたら、それは本当に心強いことでしょう。

でも、私たちをストーキングする怪しい神のイメージを持っていたら、それは本当に怖いことでしょう。

しかし、この詩篇では、ダビデが神様をどのような方だと思っていたかが明らかです。つまり、ダビデは、自分に対する神の愛を確信していたということです。

そういうわけで、ダビデは自分の心を神様の探っておられる目に向けて開きました。

ダビデは、自分の良い心を確信していたのではありません。むしろ、ダビデは、神様の慈しみを確信していました。

その確信をもって、ダビデはこのように祈りました。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

あなたはどうでしょうか。神様をどのような方だと思いますか。

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ルカの福音書のデボーション

どうして、私にこんなに優しくしてくださるの?

イエス様、ペテロのように、あなたの慈しみに値しない私は、あなたから豊かに祝福されています。

私が受けた祝福を見て、そして自分の罪を見つめると、私は叫びます。 「どうして、私にこんなに優しくしてくださるのですか?私から離れてください。私は罪深い人間です。あなたの慈しみに値しません。」

しかし、あなたは優しい目で私を見て、こう言われます。 「恐れることはない。私の働きに加わりなさい。私があなたに触れたように、周囲の人々に触れなさい。」

だから、ペテロと同じように、私は言います。 「おことばですので、私はそうします。」

あなたの尊い御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

天国にいるかのように、今を生きる

詩篇100篇を読むと、私に思い浮かんだのは、天国で私たちがそのような人生を送るということです。

イエス様にある私たちの勝利のゆえに、私たちは主に向かって喜びの声をあげます。(詩篇100:1)

私たちは喜びを持って主に仕えます。私たちは主の御前に来て、喜びの歌を歌います。(2節)

私たちは主のものであることを認め、喜びます。(3節)

私たちは感謝と賛美に満ちた心を持って主の御前に来ます。私たちは主の御名をほめたたえます。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みは永遠まで、その真実は代々に至るからです。(5節)

それは素晴らしい天国の描写ですね。

でも、私たちが天国にいるまで待つ必要はありません。毎日、そのような人生を送りましょう。