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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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ヨシュア記のデボーション

自分の冠をイエス様の前に投げ出す

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」

彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」

ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」(ヨシュア記5:13ー14)

ヨシュア記5章には、さまざまな素晴らしい真理が記されています。

神様が恥辱を私たちから取り除かれるという概念が、私は大好きです(9節)。

また、神様を信頼し、従わなければ、私たちは霊的な荒野をさまよい、神様が用意してくださった良い計画を知らずに終わってしまう、という真理についても考えさせられます。(6節)

でも、この章を読むたびに、私はなぜか13〜14節に目が引かれます。このブログでも、その節について5度も書いたことがあるのです。

ヨシュアは神の民の指導者でした。しかし、主の軍の将(多くの聖書学者は、彼こそイエス様であると信じています)が現れると、ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、こう尋ねました。 「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」

今日、この場面を読んだとき、私は黙示録4章を思い出しました。

また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。

また、自分たちの冠を御座の前に投げ出し(ました)。。。(黙示録4:9ー10)

二十四人の長老たちが神の御座の前にひれ伏し、自分たちの冠を御座の前に投げ出したように、ヨシュアもまた、自分の冠を主の軍の将の前に投げ出し、神のご支配に従いました。

今日、私もそのように応答しました。

イエス様、私の冠をあなたの前に投げ出します。あなたは私の王です。私はあなたのご支配に従います。何をこのしもべに告げられるのですか。

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ルカの福音書のデボーション

私の心を支配してください

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:20ー21)

天のお父さん、あなたが人々の心を支配されるところに、あなたの御国は存在しています。

パリサイ人たちは、自分たちのただ中にある御国を見ることができませんでした。なぜなら、あなたが彼らの心を支配しておられなかったからです(ルカ16:14ー15)。

では、あなたは私の心を支配してくださっているでしょうか。

もし私が、あなたの御国が周囲の人々にも及ぶ姿を見たいと思うのなら、まずあなたが私の心の中にご自身の御国を確立してくださらなければなりません。

ですから、私の良い王よ、どうか私の心のすべてを支配してください。

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マルコの福音書のデボーション

神の支配を拒むとき

「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7:6ー8)

この箇所を読むたびに、イエス様のことばに心を打たれます。

今日、私が考えているのは、私たちクリスチャンは何を堅く守っているのか、ということです。

イエス様は、私たちにこう言われるでしょうか。私にこう言われるでしょうか。

「あなたがたは神の戒めを捨てて、社会の価値観や考え方を堅く守っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の意見に固執しているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の心に従っているのです。」

「あなたがたは神の戒めを捨てて、自分の罪や言い訳にしがみついているのです。」

神様の支配を拒むなら、私たちの礼拝はむなしいものとなります。

神様の支配を拒むなら、私たちは口先で神様を敬うかもしれませんが、心は神様から遠く離れています。

天のお父さん、毎日、そして一瞬一瞬、私の心があなたのものとなりますように。どうか私の心を支配してください。私の思いの王、選びの王、行動の王、そして心の王となってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。