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ヨシュア記のデボーション

それゆえ。。。

それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって。。。主に仕えなさい。(ヨシュア記24:14、口語訳)

「それゆえ、今。。。」

新改訳聖書では単に「今」と訳されていますが、原語には「それゆえ」というニュアンスが含まれている場合もあります。

私が14節を読んだとき、最初に心を留めたのは、「まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい」という命令のことばでした。その一文が強く印象に残ったのです。

けれども、二度目に読んだとき、「それゆえ」という語に目がとまりました。

この「それゆえ」は、いったい何を指しているのでしょうか。

その直前で、ヨシュアは神様がどれほどイスラエルの民を祝福し、恵みを与えてこられたかを語っていました。

そして、そのすべてを語り終えたとき、ヨシュアはこう命じるのです。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい。」

それに気づいたとき、私はもうひとつの聖書の箇所を思い出しました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ書12:1)

私たちのすべてを神様に捧げること。偶像や罪を捨て、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。これらの命令に目を留めるのは、容易なことです。

もちろん、それらはとても重要です。しかし、私たちは「それゆえ」や「ですから」という語を見落としてはなりません。

だからこそ、まず、この2つの真理に心を向けましょう。

神様は、私たちに、なんと祝福してくださったことでしょう。

神様は、私たちに、なんと恵みとあわれみを与えてくださったことでしょう。

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申命記のデボーション

導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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創世記のデボーション

神の祝福を得るため

ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

ヤコブは、生涯を通じて神の祝福を得ようと努力しました。

その祝福を得るため、ヤコブは父と兄を騙しました。(創世記26〜27章)

その後、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と交渉しようとしました。(創世記28:20〜22)

そして、今日の箇所では、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と格闘しました。

彼が理解していなかったのは、神様が単純にヤコブを祝福したいと願っておられたということです。

ヤコブがするべきことは、神のあわれみと忠実さに信頼することだけでした。神様は、私たちのようなふさわしくない者にも、喜んでそのあわれみと忠実さを示してくださるのです。(10節)

その真理を把握することができれば、私たちはどんなに喜ぶことでしょう。

私たちは、神の祝福を得ようと努力する必要はありません。神のあわれみと真実さを信じ、ただその祝福を受けることができるのです。

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創世記のデボーション

わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する

あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。。。

わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し。。。(創世記26:3、24)

アブラハム、イサク、ヤコブはこの世に属しませんでした。彼らは神とその御国に属していました。でも、彼らは寄留者としてこの世に生きるように召されました。(へブル11:13–16)

彼らは周りの人々の生活様式や価値観を取り入れてはいけませんでした。むしろ、彼らはこの世の人々と違い、天の御国の市民として生きるべきでした。

そして、神様が約束されたのは、彼らが外国で寄留者のように生きていても、神様が彼らと共におられ、彼らを祝福してくださるということです。

その約束を心に留めている限り、彼らは神様を喜ばせる人生を送りました。でも、それを忘れたとき、彼らはいろいろなトラブルに巻き込まれました。

アブラハムとイサクはその約束を忘れたとき、隣人を恐れ、自分の妻を妹と呼びました。

ヤコブの場合、神様の約束が自分のためかどうか分からなかったので、神様の祝福を得るために、彼は父と兄を騙しました。

アブラハム、イサク、ヤコブのように、私たちも外国で暮らしている寄留者のようです。(第一ペテロ2:11、ヨハネ17:14–16)

神様が私たちと共におられ、私たちを祝福してくださることを信じていますか。その真理によって、私たちは生活しているでしょうか。

以下のパウロの言葉を少し考えてみましょう。その言葉の意味を噛み締めましょう。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。 。。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。(第一コリント2:7、9)