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マタイの福音書のデボーション

神のもの

イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」

彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マタイの福音書22:20~21)

このイエス様のことばを読んだとき、私たちが鏡をのぞくときにも、イエス様が同じ問いを投げかけられるのではないかと、私は思いました。

つまり、「これはだれの肖像であり、だれの銘なのか」という問いです。

その答えは、「神のもの」です。

神様は私たちを造られたとき、ご自身の肖像を私たちに刻みつけ、「主の聖なるもの」としての印を私たちの心に刻んでおられました。

詩人が記したように、

知れ。【主】こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。 (詩篇100:3)

だからこそ、私たちは神のものを神に返さなければなりません。

特に、心のすべて、いのちのすべて、知性のすべて、力のすべてを神様にささげなければなりません。(マタイ23:37;マルコ12:30)

さらに、神様が求められる実をささげなければなりません。 すなわち、正義とあわれみと誠実という実です。 (マタイ23:23)

今日、私は自分がどれほど失敗しているかを思わされました。 パリサイ人や律法学者のように、私は語ることを実行しないことが多いのです。

私はそのように歩みたくありません。

神様はご自身の肖像を私に刻み、ご自身のすばらしい御名を私の心に刻んでおられます。

神様が私に刻んでくださったその肖像と刻印にふさわしく歩みたいと願います。

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ヨシュア記のデボーション

自分自身に気を付けなさい

だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(ヨシュア記23:11)

今朝、私はそのことばに心を打たれました。

「自分自身に気を付けなさい。」

それだけでなく、「自分自身を十分に気を付けなさい」とも語られています。

何のためでしょうか。

それは、私のすべての思い、言葉、そして行動が、神への愛を映し出すものとなるためです。

今朝の私の心はやや騒がしく、態度も正しくありませんでした。

期末テストがあるのに、娘はかぜを引いて、私はそのことをすこし心配しています。また、職場でもいくつかイライラすることがあり、心が乱れました。

けれども、今日の聖書箇所を読んで、心をもう一度正しい方向へ向け、 何が本当に大切なのかを思い起こそうとしています。

それは、神を愛すること。 そして、周囲の人々を愛することです。

私たちは、自分の状況や感情に簡単に引きずられてしまいます。

だからこそ、ヨシュアの言葉を心に刻んでおきましょう。

「自分自身に気を付けなさい。」

そして――「あなたがたの神、主を愛しなさい。」

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マルコの福音書のデボーション

私は神様のものを返しているでしょうか

するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マルコの福音書12:17)

(律法学者は)イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」

イエスは答えられた。。。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(28~30節)

イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(43~44節)

天のお父さん、私は正当にあなたのものを返しているでしょうか。私のすべては、あなたのものでしょうか。私は本当に、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたを愛しているのでしょうか。

私はもはや、自分自身のものではありません。私は、代価を払って買い取られた者です。イエス様の血によって、私は買い取られました。

ですから、やもめのように、毎日、自分のからだ、持ち物、私のすべてをもって、あなたの栄光を現す者となります。(第一コリント6:19~20)

もし、私があなたに捧げていないものがあるなら、それを明らかにしてください。

あなたは、私のすべてを受けるにふさわしい方だからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。