多くの歌は、神様を見たいという願いを表現しています。子どもの頃、私はこの歌を歌いました。
Open our eyes Lord,
私たちの目を開いてください。
We want to see Jesus.
私たちはイエス様を見たいです。
To reach out and touch him.
私たちは手を伸ばし、イエス様に触れたいです。
To say that we love him.
イエス様に、「あなたのことを愛している」と言いたいです。
また、大学生の時、私はこの歌を歌いました。
Open the eyes of my heart Lord,
主よ、私の心の目を開いてください。
Open the eyes of my heart.
私の心の目を開いてください。
I want to see you.
あなたを見たいのです。
I want to see you.
あなたを見たいのです。
私はこの二つの歌が大好きです。けれども、もし私たちが本当に神様を見たいと願うなら、イエス様は私たちにこう言われます。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイの福音書5:8)
どうして清い心は大切なのでしょうか。それは、神様が清い方だからです。
天使たちは神様のもとで歌うとき、神様の愛について歌うのではなく、こう歌います。
聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:6)
(もちろん、彼らは神様の愛についても歌うかもしれません。とはいえ、聖書には「愛深い、愛深い、愛深い、万軍の主」という歌は記されていません。)
旧約聖書でも新約聖書でも、神様は私たちにこう命じられます。
わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。(レビ記11:44-45;第一ペテロ1:16)
神様は罪を憎み、その近くにおられることはできません。もし私たちが罪によって汚れてしまったなら、神様から遠ざかっていると感じるかもしれません。
それは、私たちが救いを失い、神様が私たちをもう愛しておられないという意味ではありません。けれども、神様との親しい関係を持つことができなくなってしまいます。
ある日、私は友人のガレージで話しているとき、その友人の2歳の娘が少しの間どこかへ行きました。
そして戻ってきたとき、彼女は父親がオイルを拭いていたスポンジを手に持っていました。そのため、彼女の手と顔はとても汚れていました。それでも、彼女は母親に抱っこしてほしいと願いました。
もちろん友人は彼女を抱きたがりませんでした。すると、その娘は泣き始めました。そこで、友人は少し考えた後、後ろから娘を抱き上げ、家に連れて行って、きれいに洗ってあげました。
時々私たちは、「なぜ神様から遠ざかっているように感じるのだろうか」と問いかけます。祈っても神様がその祈りを聞いてくださらないように感じ、神様の臨在を感じることができないことがあります。
そのようなとき、自分自身に問いかけてみるべきかもしれません。 「私は罪によって汚れてしまっているだろうか。その罪のために、神様は私から離れているのだろうか。」
ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。(へブル12:14)
二つの重要な注意点があります。
まず一つ目は、たとえ私たちが罪に陥ったとしても、神様はこう約束されています。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)
私たちにはいつも清い心が必要です。しかし、その清さを保つためには、毎日悔い改めなければなりません。
次に、あなたが神様から遠ざかっているように感じるとしても、それが必ずしもあなたの罪のせいだとは限りません。ほかの理由があるかもしれません。(ただし、それは別の記事のテーマです。)
それでも、私たちは神様にこう祈るべきです。 「私たちの間に何か障害があるでしょうか。罪があるでしょうか。」
もし罪の問題があるなら、神様はあなたに教えてくださいます。神様は決して、 「あなたは知っているはずだ。もし知らないなら、私は教えないよ。」 とは言われません。
ですから、もし神様があなたの罪を指摘されないのであれば、おそらく別の理由があります。そして、後に神様はきっとその理由を明らかにしてくださるでしょう。
それでも、毎日こう問いかけてましょう。 「私の心は神様のみ前に清いものでしょうか。」
