彼はこう言いました。「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。
あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(使徒の働き22:14ー15)
サウロはアナニアの言葉を聞いて、どれほど驚いたことでしょうか。
「聖書では、神様について何度も読んできた。神様がアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、預言者たち──聖書のヒーローたちと歩まれたという話を繰り返し読んできた。
でも、その同じ神が私を選んでくださったのか?神様は私とも、そのような親しい関係を望んでおられるのだろうか。」
サウロがアナニアの言葉を最初に聞いたとき、その意味を深く考えていたかどうか、私にはわかりません。彼はきっと、他にも多くのことを考えていたでしょう。特に、イエス様について自分がどれほど間違っていたかを思い巡らしていたはずです。
でも、アナニアの言葉を読んだとき、私はこう思いました。
「聖書によれば、神様はある人々と特別な関係を持っておられた。でも、その同じ神が、私とも親しい関係を持ちたいと願っておられるのか?
みこころを知るために、神様は私を選んでくださったのか?御子を見るために、私を選んでくださったのか?神様の口から御声を聞くようになるために、私を選んでくださったのか?
そして、神様は不完全な私を、証人として用いたいと願っておられるのか?」
それは、なんと素晴らしい権利でしょうか。でも、その権利は牧師や宣教師、偉大なクリスチャンたちだけのものではありません。
その権利は、イエス様を信じる信仰によって、一人ひとりの神の子供に与えられているのです。
少し時間を取って、その権利について考えてみましょう。「私はその真理を本当に信じているだろうか?その権利が私に与えられていると信じているだろうか?」
天のお父さん、あなたは古代の書物の登場人物ではありません。あなたは昔の人々の人生の中で働いておられた神だけではありません。あなたは今も生きておられる神です。
だからこそ、私はあなたを本当に知りたいです。あの人たちがあなたを知っていたように、私もあなたを知りたいです。あなたを見たいです。あなたの御声を聞きたいです。あなたと御国のために用いられたいです。
イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
