士師記では、同じテーマが何度も繰り返されます。
士師記3:7-8には、こう書いてあります。
こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。
それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
また12節では、
そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らの主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。
そして、4:1-2では、
その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。
それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。
士師記を読みながら、何度もそのような言葉を見ます。イスラエル人は偽の神々を礼拝し始めたため、神様がその神々の国の手にイスラエル人を渡されました。
そして、イスラエル人は苦しみ、悔い改めて、神様に「助けてください」と祈り、神様が彼らを救う救助者を起こされました。
この箇所から、私たちは大切なことを学べると思います。
私たちが自分自身を何かに捧げると、そのものの奴隷になります。もし、私たちが自分自身を罪に捧げたら、罪の奴隷になります。
でも、もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様の奴隷になります。
以前言ったように、「あなたは誰かに仕えなくてはならない。」
パウロはこのように言っていました。
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)
時々、人々は、「神様から離れたら、私は自由です。私は何でも出来る。」と思います。
でも、彼らが分からないのは、他のものの奴隷になっていることです。たとえば、自分の情欲や貪欲の奴隷になってしまいます。そして、パウロが言ったように、その行き着く所は恥と死です。(ローマ6:21-22)
たくさんの人々は、「どうして、私の人生はめちゃくちゃになったのだろうか」と思います。
「どうして、私の結婚はめちゃくちゃなのだろうか。どうして、私の経済はダメなのだろうか。どうして、私の悪い癖を止められないのだろうか。」
そして、彼らが気づくのは、自由だと思っていたものが本当は奴隷の人生だということです。また、その人生が死に導くことを理解するようになります。
だから、パウロは書きました。
あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(6:19)
あなたはどうでしょうか。あなたは自分自身を誰に捧げているでしょうか。何に捧げているでしょうか。
誰も本当に自由ではありません。
情欲に仕えて奴隷となり、滅びる人生を送ることもできます。
それとも、あなたは神様に仕えて満ち溢れる人生を送ることができます。
あなたはどうしますか。