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士師記のデボーション

神中心?自己中心?

数日に渡ってサムソンの人生を考えているとき、二つのことが私の目につきました。

一つ目は、サムソンが自己中心な人生を送っていたということです。彼が敵を打ち倒したとき、イスラエルの民をある程度まで助けましたが、その助けは偶発的なものでした。彼はイスラエルの民を救おうとしていたわけではなく、彼の動機はただ復讐でした。

二つ目は、彼が神様との関係をほとんど持っていなかったということです。彼が神様に祈ったのは、助けを求めるときだけでした。

サムソンは祭壇を建てたこともなく、神様を礼拝したこともありませんでした。勝利を得たときも、それ以外のときも、神様に感謝することはありませんでした。

神様はサムソンを通して、ある程度までイスラエルの民をピリシテ人から救われました。

けれども、サムソンが人々を導くことはありませんでした。彼が自分の民と関わった唯一の場面は、彼らがサムソンをピリシテ人たちに引き渡したときでした。(士師記15:11~13)

彼は、人々を神様に従うように導くことはまったくありませんでした。むしろ、周りの人々と同じように、サムソンは自分の目に良いと見えることを行っていました。(士師記14:17;17:6)

私はそのような人になりたくありません。私の心が神様のものとなることを願います。また、周りの人々が神様に従う心を持つよう導きたいです。

あなたはどうですか。どのような人になりたいですか。

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ヨシュア記のデボーション

それゆえ。。。

それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって。。。主に仕えなさい。(ヨシュア記24:14、口語訳)

「それゆえ、今。。。」

新改訳聖書では単に「今」と訳されていますが、原語には「それゆえ」というニュアンスが含まれている場合もあります。

私が14節を読んだとき、最初に心を留めたのは、「まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい」という命令のことばでした。その一文が強く印象に残ったのです。

けれども、二度目に読んだとき、「それゆえ」という語に目がとまりました。

この「それゆえ」は、いったい何を指しているのでしょうか。

その直前で、ヨシュアは神様がどれほどイスラエルの民を祝福し、恵みを与えてこられたかを語っていました。

そして、そのすべてを語り終えたとき、ヨシュアはこう命じるのです。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい。」

それに気づいたとき、私はもうひとつの聖書の箇所を思い出しました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ書12:1)

私たちのすべてを神様に捧げること。偶像や罪を捨て、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。これらの命令に目を留めるのは、容易なことです。

もちろん、それらはとても重要です。しかし、私たちは「それゆえ」や「ですから」という語を見落としてはなりません。

だからこそ、まず、この2つの真理に心を向けましょう。

神様は、私たちに、なんと祝福してくださったことでしょう。

神様は、私たちに、なんと恵みとあわれみを与えてくださったことでしょう。

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申命記のデボーション

誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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申命記のデボーション

心の包皮に割礼を施す

主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者(脚注:すなわち、強情なもの)であってはならない。(申命記10:15ー16)

「心の包皮に割礼を施しなさい。」

それはいったいどういう意味でしょうか。

割礼とは、イスラエルの男性たちに行われた儀式です。それは、彼らが神様の民であることを証明したものでした。

しかし、割礼を受けても、多くのイスラエル人の心はまだ割礼されていないものでした。

つまり、彼らの心は神様のものではなかったということです。むしろ、彼らは古い考え方と古い生活にしがみつきました。それらは、神様との関係を妨げるものとなりました。

私は最近、教会のメッセージでアブラムについて話しました。アブラムもイスラエル人と同じ問題を抱えていました。

自分の心が完全に神様のものになるため、彼は古い考え方や古い生活を切り捨てなければなりませんでした。(創世記12章)

神様はアブラムを慕って愛されたように、私たちを慕って愛してくださいます。けれども、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

もしそう信じるのであれば、神様を完全に信じ、従うことを妨げるものを考えましょう。

神様の助けによって、また他のクリスチャンたちの助けによって、そのものを切り捨てましょう。

そうすれば、私たちは心を尽くし、命を尽くして、神様を愛し、神様を喜ばれる道を歩むことができます。(12節)

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申命記のデボーション

神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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民数記のデボーション

自分の心を導こう

イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。(民数記15:38~41)

去年、私の教会では、私たちは自分の心に従うのではなく、神様に従うように自分の心を導くことについて話しました。

それは新しい概念ではありません。モーセはイスラエル人たちに同じことを教えました。

「ただ自分の心に従うな。目の欲に従うな。そうすれば、淫らなことをして、さまよい歩いてしまいます。」

英訳によれば、「あなたは霊的な売春婦になります。」

だから、モーセはイスラエル人たちに言いました。「神とその道に従うように、自分の心を導こう。」

どうして彼らはそうするべきだったのでしょうか。なぜなら、神様はまず彼らを愛してくださり、エジプトの奴隷生活から救い出してくださったからです。

神様が彼らをご自分の民にしてくださったので、彼らは神様に対して聖なるものとなるべきでした。

そのように、神様は私たちをまず愛してくださり、サタンの国から救い出してくださいました。

私たちは神様の愛しているものなので、もう一度自分を霊的な売春婦として罪に売ってはなりません。

むしろ、私たちは神様に対して聖なるものとなるべきです。

私たちは、どのように自分の心を導くことができるでしょうか。

神様はイスラエル人たちに、一つの方法を教えてくださいました。

神様は彼らに、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように命じました。その目的は、服を着るたびに神様に従うように心を導くことを思い出させるためでした。

もちろん、私たちはそうする必要はありませんが、私たちが誰のものであるか、誰に従うべきかを日々思い出す方法を見つけるべきです。

最近、教会の友達が引っ越しをしたところ、そのアパートの礎に、こう書いてあります。

主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6:4)

彼がそのアパートに入るたびに、それは彼の房になるかもしれません。

私の「房」は、黙示録4:11に基づく祈りです。毎日、私はこう祈ります。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

みこころのゆえ、あなたは私を造られ、もう一日のために息吹を与えてくださいました。

私の人生によって、あなたがあがめられるように。アーメン。

あなたの房は何でしょうか。

自分の房を見つけましょう。

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ヨナ書

私たちの選択

前回の箇所(列王記第二14:25)にヨナの名前が登場したことを受けて、今日はヨナの話について見ていきましょう。

これは非常に有名な聖書の話です。特に興味深いのは、この物語が起こった時期です。この出来事はヤロブアムがイスラエルの王だった頃で、イスラエルの民はほとんど神様を求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はヨナをイスラエルの民のために送りませんでした。むしろ、神様はイスラエルの敵であるニネベに悔い改めのメッセージを伝えるためにヨナを送りました。

おそらくヨナは、イスラエルの民に「神様はあなた方を敵の手から救い出す」と伝えることに喜びを感じていたことでしょう。

たとえ神様がヤロブアムを用いて働かれる理由が彼に理解できなかったとしても、それが良い知らせである以上、ヨナは困ることはありませんでした。

しかし、神様がイスラエルの敵を愛し、彼らに悔い改めの機会を与えようとされたため、ヨナは大いに困惑しました。彼はこう考えたかもしれません。

「なぜ神様はイスラエルの敵に悔い改めのメッセージを伝えたいのだろうか?彼らを滅ぼしたほうが良いのではないか?」

その結果、ヨナはニネベに行くことを拒み、反対の方向へ逃げる道を選びました。

皮肉なことに、神様はヨナが人々に影響を与えることを望まれました。ヨナは確かに影響を与えましたが、それは悪い方法での影響でした。

神様はヨナの注意を引くために嵐を送られました。けれども、その船にはヨナだけでなく、他の乗客も乗っており、皆が困難に直面しました。

ここでお伝えしたいのは、私たちの選択が他の人々に影響を与えるということです。それは良い影響かもしれませんし、悪い影響かもしれません。

神様に従うなら、私たちはこの世のために多くの良いことをすることができます。

しかし、神様に背くなら、否定的な影響を周りの人々に与えてしまうでしょう。私たちの家族や友人、愛する人々に悪い影響を与える可能性があります。

そして、私たちの悪い行動によって、彼らは神様に近づくどころか、神様に背を向けてしまうかもしれません。

幸いなことに、ヨナの罪にもかかわらず、神様はご自身の栄光のためにヨナの行動を用いられました。船乗りたちがヨナを抱え、海に投げ込むと、海はその激しい怒りを静めました。それを見た船乗りたちは神様を恐れ、神様を求め始めたのです。

では、あなたはどうでしょうか。周りの人々にどのような影響を与えていますか。悪い影響でしょうか、それとも良い影響を与えていますか。

毎日、神様に従うことを選びましょう。そうすれば、神様は私たちを通してこの世を変えてくださいます。

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士師記

でも、私はできない

時々、神様は私たちに何かを命じられますが、私たちはそれは無理だと思います。私たちにとって、その仕事が大きすぎると思うかもしれません。または、私たちは罪と闘っていますが、いつも誘惑に負けてしまいます。

だから、私たちは言います。「神様、ごめんなさい。私はできません。この闘いは大きすぎるから。」

また、「この仕事ができません。私にとっては無理です。」

イスラエル人も同じでした。神様はイスラエル人に「カナン人をすべて土地から追い出しなさい」と命じられました。

けれども、その仕事が難しくなると、イスラエル人は諦めました。

どの程度まで頑張ったのでしょうか。追い出そうとしたのに、圧倒的に敗北したのでしょうか。

または、少し頑張ったけど、すぐに諦めたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、イスラエル人はあまり努力しなかったのでしょう。だから、攻撃を始めたけど、うまく行かなかったから、すぐに諦めてしまいました。カナン人を追い出すのは難しすぎたからです。

だから、神様は彼らに言われました。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。(士師記2:1-2)

神様は彼らの言い訳を受け入れませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様は彼らと共におられると約束し、また、彼らを助けることを約束してくださったからです。

神様はイスラエル人の目の前に、エリコの壁を壊してくださいました。神様はイスラエル人の敵の上に雹を送り、イスラエル人の刀よりも、雹の方がその敵を殺しました。神様はアイを征服するためにイスラエル人に作戦を与えてくださいました。

それでも、イスラエル人は言いました。「私たちの敵は鉄の戦車を持っているから無理です。」

また、

「カナン人はこの土地から出たくない。彼らは激しく戦っています。彼らを追い出せない。」

神様の大きさに焦点を当てず、彼らは自分の弱さに焦点を当てていました。神様の助けを祈らず、彼らはただ「私たちはできない」と言っていました。だから、神様の命令に従いませんでした。

私たちはどうでしょうか。問題に直面するとき、どのように反応するでしょうか。私たちより大きい仕事を与えられたら、神様の力に頼り、従いますか。それとも、ただ「無理だ」と言って、やってみる前に諦めますか。

あるいは、少しだけやってみるけど、すぐに「もうだめです。残念です」と言いますか。

神様はその言い訳を受け入れません。なぜなら、神様は私たちと共におられるからです。そして、神様が私たちに仕事を与えるときは、いつも助けを備えてくださいます。

だから、私たちが何ができないかに焦点を当てず、神様が何ができるかに焦点を当てましょう。そして、従いましょう。