英語の教師として、いらいらさせられるのは、学ぶ意欲のない生徒たちです。
ある授業では、生徒たちは全く努力をしません。もし、私が彼らに英語のアクティビティを与えたら、彼らはショックを受けたように見えます。
とはいえ、それよりも、もう一つの態度の方が嫌いです。それは、「既に全て知っている」という態度です。
「もう知っていますよ。教えていただく必要はありません。全て知っていますから。」
それでも、彼らに質問をすると、自分たちが思っているほど理解していないことが、はっきりと分かるものです。
イスラエル人は、そのような人々でした。特に、その「祭司たち」と「預言者たち」は、そのような人々でした。
実は、その祭司たちと預言者たちは偽物の祭司たちと預言者たちでした。彼らは、本当の信仰と偶像礼拝を混ぜたからです。
イザヤは、この人々を酔っ払い、混乱している人々として描写しています。彼らは、イスラエル人を神様を礼拝するように導くはずでしたが、お酒によって「幻」を見て、イスラエル人を神様から遠ざけました。
イザヤや他の本当の預言者たちは彼らに教えようと思いましたが、彼らはイザヤたちをからかって答えました。
「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。
彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』と。」(イザヤ書28:9-10)
つまり、「私たちはもう知っていますよ。子供ではありませんよ。イザヤの言葉はちんぷんかんぷんです。」
(ヘブル語では、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」という言葉は、意味のない言葉のように響きます。)
アテネ人はパウロについて、そのようなことを言いました。「このおしゃべりは、何を言おうとしているのか。」(使徒の働き 17:18)
しかし、イザヤは彼らに警告しました。
「もし私の言葉がちんぷんかんぷんだと思うなら、待ってください。すぐに、他の国の軍隊が来て、イスラエルを攻撃し、イスラエルは倒れるでしょう。その日、外国人からずっとちんぷんかんぷんに聞こえる言葉を聞くことになります。」
神様の望みは、イスラエル人が神様を愛し、神様に信頼することでした。そうすれば、彼らは神様にあって休息することができたことでしょう。(12)
けれども、彼らが神様に背を向けたため、イザヤの言葉は彼らにとってつまずきとなるものになりました。
現代でも、同じ問題があります。多くの人々は、簡単な福音を聞きますが、ちんぷんかんぷんに聞こえる言葉として、それを拒絶します。
「これは子供の話です。私はもう大人だから、いりません」と言います。
しかし、私たちの救い主イエス様を拒絶することによって、彼らは罪に陥り、いつか裁かれることになります。
クリスチャンでさえも、「もう知っている」という罠にはまることがあります。
彼らは教会に行き、メッセージを聞く時、「もう知っている」と思ったり、または「このメッセージを聞きたくない」と思ったりするため、聞くことをやめて、他のことについて考え始めます。
その結果、神様の警告も祝福も受けることができません。
あなたはどうでしょうか。神の御言葉を、わけのわからないものとして拒絶するでしょうか。それとも、神の御言葉を心に受け入れるでしょうか。その御言葉は、あなたの人生を変える力を持っています。
私たちはよく考えます。「どうしてこんなにたくさん問題があるのでしょうか。どうして、神様の祝福を受けることができないのでしょうか。」
多くの場合、それは私たちが神様の言葉を聞かないからです。
あなたの心はどうでしょうか。神様の御言葉に対して、柔らかい心を持っているでしょうか。
