カテゴリー
マルコの福音書のデボーション

私たちの力の源

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

イエス様の弟子たちはとても恥ずかしかったのです。彼らは何回も悪霊を追い出したことがありました。でも、今回はその悪霊を追い出せませんでした。なぜでしょうか。

たぶん、彼らは悪霊を追い出す力が自分から来たと思い始めたからです。彼らはそう言わなかったかもしれませんが、彼らの態度や行動はその考え方を現していました。

つまり、悪霊がその人から去ることを拒んだとき、弟子たちは神様のみ前に来て願わずに、ただフラストレーションを感じただけでした。

多くの場合、私たちがクリスチャンの奉仕をすればするほど、私たちの自信はつきます。「私はこれができる!」と思い始めます。

でも、私たちは何を信じているでしょうか。

私たちは自分と自分の賜物を信じているのでしょうか。

もしかすると、神様を信じているのでしょうか。

私たちがただ自分と自分の賜物に頼るなら、その奉仕はしばらくうまく行くかもしれません。

でも、最終的に、イエス様の弟子たちのように、私たちは失敗してしまって、フラストレーションを感じてしまいます。

だから、私たちの力がどこから来るか覚えていましょう。イエス様は私たちに言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4ー5)

カテゴリー
エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた者ですが、多くのクリスチャンはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私にはできません。私はただの普通のクリスチャンですから。」

けれども、神様はあなたをパウロのように召しているのではありません。あなたもパウロも神様の恵みの務めを与えられた者ですが、それぞれ異なるかたちでその務めを果たすのです。

それでも、神様があなたを導いてくださる中で、あなたは福音を語り、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格がありません。その働きにふさわしくありません。」

実は、パウロ自身もそう感じていました。彼はこう語っています。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(エペソ人への手紙3:7-8)

パウロは、自分が神様の恵みの務めを受けるにふさわしくない者だと感じていました。彼は「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さい者です」と語りました。

なぜパウロはそう感じたのでしょうか。それは、彼がかつて教会を迫害し、多くのクリスチャンを逮捕したり、殺したりしていたからです。

それにもかかわらず、彼はこう言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に伝えるために、私は神様の恵みを与えられたのです。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、こう語りました。「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、私は福音に仕える者となったのです。」

神様はあなたもまた、福音に仕える者となるよう召しておられます。あなたも神様の恵みの務めを与えられたのです。なぜでしょうか。それは、神様がその恵みをあなたに豊かに注いでくださったからです。

良いしもべとなるために、特別な資格や賜物は必要ありません。自分の知恵や力に頼る必要もないのです。

むしろ、この恵みの務めを果たすためには、あなたは神様から与えられた恵みと力に頼るべきです。その恵みと力によって、あなたはこの務めを忠実に果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様のご計画は、教会を通してご自身の多面的な知恵をこの世に示すことです。

しかし、「教会」とは建物を指しているのではありません。教会とは、あなたと他の信じる者たちのことなのです。あなたを通して、神様はご自身の知恵を現したいと願っておられます。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様がどうやって私を用いられるのでしょうか。」

あなたが弱く、平凡な存在であるからこそ、神様はあなたを用いることができるのです。なぜなら、弱くて平凡な人々は、神様の力にすがる以外に道がないからです。

パウロはこう言っています。「私たちが弱いときにこそ、私たちは強いのです。」(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(コリント人への手紙第一1:26-27)

神様はご自身の知恵を現すために、強い者たちを募集しておられるのではありません。むしろ、神様は弱い者を求めておられるのです。

なぜでしょうか。それは、人々があなたの人生において神様がなされたこと、また神様があなたを通して周囲にどのように触れておられるかを見るとき、驚かされるからです。

そのため、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ペテロとヨハネのことに驚いたのです。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、私たちを見た人々は、驚かされることでしょう。

彼らが私たちを見るとき、私たちがイエス様と共に歩んできた者であることが、彼らにも分かるように。

カテゴリー
イザヤ書

解決方法を知らない

選挙の時に、多くの政治家はたくさんの約束をします。彼らは社会の問題について話し、「私に投票すれば、すべては変わる」と約束します。

しかし、多くの場合、何も変わりません。

もし、ある政治家が「私は解決方法を全然知りません。私に投票しないでください。他の政治家にも投票しないでください。なぜなら、誰も解決方法を知らないからです。」と言ったら、人々はどう反応するでしょうか。

多分、人々はその人に投票しないでしょう。一方では、彼が他の政治家よりも正直だと思います。けれども、自分の無能を認める人に投票するのは難しいものです。

さて、神様はユダとイスラエルにそのような状況を起こされました。列王記では、イスラエルが国としてどれほど速く崩れたかを、後で私たちは見ることになります。一方、この箇所では、神様はユダに語っておられます。

ユダ人が神様に背を向けたので、神様は彼らに警告されました。

「私はあなたの食糧と給水を取り除きます。それだけではなく、あなたのリーダーたちと助言者たちを取り除きます。その人々の代わりに私は解決法をよく知らない若者をあなたに与えます。」

そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」

その日、彼は声を張り上げて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」(イザヤ書3:6-7)

つまり、ユダ人は必死で、だれかが他の人々よりもちょっとお金があったら、その人をリーダーにしようとします。

しかし、その人はこう答えます。「私は解決法をよく知りません。私はうまく家族を世話することができません。なのに、どうして私はこの国をリードできるでしょうか。」

この社会の問題の解決法を見つけるために、私たちはどこを捜しているでしょうか。政治家を求めるでしょうか。

彼らは解決法を知りません。歴史を見れば、それが分かります。なぜなら、多くの政治家は神様とその道をよく知らないからです。

イスラエル人はそのような人々でした。彼らが神様から逃げたので、すぐに彼らの希望はなくなりました。そして、彼らが神様から離れたので、だれも彼らの問題の解決法を知りませんでした。

もし、社会の問題の解決法を見つけたいなら、希望を与えてくださる神様を求めなくてはなりません。神様とその道に従わなくてはなりません。

そうしないと解決法を見つけられません。なぜなら、神様から離れたら解決法がないからです。

有名なクリスチャン、チャールズ・コルソンはこう言いました。

希望はどこにあるのでしょうか。私は、社会の腐敗に心を痛め、落ち込んでいる人々に何度も出会ってきました。

私たちの希望は、政治家にあるのではありません。新しい法律から得られるものでもありません。この国の実績に根ざすものでもありません。

私たちの希望は、人々の心の中に働いておられる神様の力です。 それこそが、この国の希望であり、私たちの人生の希望でもあります。