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イザヤ書

神様の召しを無視する

神様が私たちをご覧になる時、どれほどフラストレーションを感じておられるでしょうか。この箇所では、神様のフラストレーションが見えるように思います。

神様はイスラエルについて話しておられますが、私たちについても話しておられるかもしれません。

わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。

わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。

わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし[ます]。(イザヤ書65:1~3)

どうして神様は私たちをお見捨てにならなかったのでしょうか。私たちは罪を犯し、そのことは死に値しました。

では、どうして神様は「彼らは私を求めないのに、なぜ私の方が彼らに手を伸ばすべきなのか」と言われなかったのでしょうか。

何回も神様は私たちに、「私はここだ、私はここだ」と言われます。

それなのに、私たちはその愛を目にしても、わざと神様を怒らせます。私たちは神様に対して良い香りではなく、臭い煙となります。だから私たちは裁かれるのです。

神様はこう言われました。

わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。。。

わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。。。

わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。(イザヤ書65:6~7、12)

でも、その裁きの中にも、あわれみがあります。もし私たちが神様の召しに答えるなら、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。神様はこう言われました。

ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。

わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。(8~9)

神様がすべてのイスラエル人をお見捨てにならず、神様に属する心をあわれんだように、今もすべての人々をお見捨てにならず、神様に属する心をあわれんでおられます。

ペテロはこう書きました。

主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9)

私たちはどのように神様の召しに反応するのでしょうか。

神様のもとに走るでしょうか。

それとも、神様に背を向けて、わざと怒らせるのでしょうか。