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コリント人への手紙第二

私たちの役割、神様の御業

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応を気にします。

それは当然のことです。なぜなら、私たちは彼らの救いを心から願っているからです。さらに、私たちは自分が好かれることも望んでいます。

もちろん、一つ目の願いは非常に大切ですが、二つ目の願いは二次的なものです。だから、その思いが福音の宣言を妨げることがあってはなりません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

「落胆することがありません」と言うとき、パウロが意味したのは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということだと思われます。

もちろん、人々が福音を拒絶するのは悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのは容易なことです。

しかし、パウロはこう語ります。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣べ伝えるとき、私たちは誠実にふるまいます。私たちは人を欺こうとするのではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と語りました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。本来、この言葉はワインを売る商人が自分の商品を水で薄めることを指していました。

言い換えると、パウロはこう言いました。

「私たちは神様のことばを薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れられるように、福音を変えることは決してしません。むしろ、私たちはその真理を誠実に語ります。」

時に、相手が福音を受け入れやすくするため、また、私たち自身を受け入れてもらうために、福音のメッセージを変えたいという誘惑に駆られることがあります。

しかし、パウロにとって、それは決して許されることではありませんでした。彼は福音をはっきりと伝え、相手にこう語りました。

「これが福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちにもそのように語るように召しておられるのです。

人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。私たちの責任は真理を正しく語ることなのです。

パウロはこう語ります。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したのは、もし私たちが誠実に福音を伝えたとしても、相手が真理を理解できない場合、私たちは自分自身を責める必要はないということです。なぜなら、サタン自身が彼らの思いを暗くしているからです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちはその人を神様の御手に委ねるべきです。それが私たちにできる唯一のことなのです。

パウロはこう書きました。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたとき、神様こそが暗闇の中に光を放ち、すべてを照らされました。同じように、神様は暗闇の中にある人の心を照らすことができます。

だから、ある人が福音を拒絶するとき、その人のために祈ってください。それこそが、私たちの役割です。その結果は、神様の御業です。

そのため、相手が福音をもっと簡単に受け入れられるようにするために、決して福音のメッセージを曲げてはいけません。

むしろ、その真理を正しく語り、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働かれることを待ちましょう。

そうすれば、もし神様の御心なら、神様の最善のタイミングで、私たちは実を見ることができるでしょう。