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箴言のデボーション

主を恐れる

主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。(箴言14:27)

その聖句を読んだとき、私は箴言13章にあるソロモンの言葉を思い起こしました。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。これによって、死の罠から逃れることができる。(箴言13:14)

主を恐れるとは、どういう意味でしょうか。 その意味の中心は、主の御言葉に耳を傾け、従うことです。

しかし、私たちはどれほど、自分が神様よりも知っているかのように振る舞ってしまうでしょうか。

聖書を読むとき、私たちはこう思うことがあります。 「この言葉には同意できない。これは時代遅れだ。」

ソロモンはそのような考え方について、こう語りました。

人の目にはまっすぐに見えるが、 その終わりが死となる道がある。(箴言14:12)

サタンは偽りの証人です。彼は偽りの父です。 この世の民はサタンの嘘を信じており、私たちにもその嘘を受け入れさせようとします。

しかし、彼らが神様の言葉に反することを語るとき、私たちはその言葉を受け入れてはいけません。

その反面、イエス様は真実で確かな証人です。イエス様は、決して嘘をつかれません。 さらに、イエス様の知恵に満ちた御言葉によって、私たちは死の罠から逃れ、命を得ることができます。(黙示録3:14;箴言14:5;14:25)

忘れないでください。イエス様は、私たちの罪のための償いとして、十字架でご自身を捧げられました。(レビ記5:6;箴言14:9)

そのゆえに、私たちは天の父と和解しました。

だから、神様を恐れ、信頼して従いましょう。また、私たちの子どもたちにもそうするように教えましょう。

そうすれば、神様は彼らにとっても避け所となってくださいます。(箴言14:26)

神様はいのちの泉です。毎日、神様を恐れ、そのいのちの言葉を飲みましょう。

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神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

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詩篇

聖さの望み

詩篇119篇は最も長い詩篇であり、最も長い聖書の章です。だから、少しずつこの詩篇を読み、そのテーマについて話していこうと思います。

この箇所では、私たちは詩人の聖さの望みを見ることができます。だから、この詩人がダビデかもしれないと考える方もいるでしょう。なぜなら、ダビデは神様の心に叶うものと呼ばれたからです。(とはいえ、この詩篇は無名の詩人によって書かれました。)

最初に、詩人は全き道を行く人々の幸せについて話します。そして、彼は心から叫びます。

どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。(詩篇119:5-6)

つまり、「どうして、聖い人生を生きることができないのだろう。私はよく自分の罪を恥じます。あなたの命令を守ることができたらいいのに。」

そして、もう一度、彼は約束します。

私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。(8)

聖さの鍵は何でしょうか。詩人は私たちにその答えを示してくれます。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(9-11)

私たちはどのように聖い人生を生きられるでしょうか。私たちは神様の言葉に従って守るべきです。私たちは神様の言葉を心にたくわえ、その言葉に思いを巡らすべきです。

私たちは聖書を本棚にずっと置かずに、その言葉を読んで、喜ぶべきです。

私たちを清める御言葉を喜ぶでしょうか。また、私たちは神様の聖さを喜ぶでしょうか。

時々私はそうしません。聖いものに思いを巡らさずに、そのものを喜ばずに、私は聖くないものに焦点を当てます。だから、私は罪に落ちます。

だから、パウロのように私は叫びます。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

もし自分の力で聖い人生を求めるなら、それは当然の結果です。

それでは、その解決は何でしょうか。パウロはこう言います。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

私たちは自分の力によって聖い人生を生きることはできません。それは無理です。詩人もそのことが分かりました。だから、彼は神様に叫びました。

どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。(詩篇119:10)

要するに、「私は聖い人生を送れません。助けてください。」

この詩篇を読む時、律法主義の考え方を持つことは簡単です。多くのクリスチャンは「私は自分の力で聖い人生を生きなくてはならない。」と思います。

けれども、私たちが神様の恵みによって救われたことを決して忘れないでください。また、神様が私たちの中で働いてくださらないなら、私たちは決して聖い人生を生きることができません。

しかし、「もしそれは無理なら、どうして努力するだろうか」と思わないでください。

むしろ、私たちは義に飢え渇きましょう。そうすれば、どうして私たちが神様が必要かはっきり分かるようになります。その時、神様の恵みが私たちの心に注がれます。

また、自分の正しさに関するプライドが無くなって、神様の恵みと憐れみを見ますので、私たちはへりくだります。

その結果は何ですか。私たちが自分の力に頼らず、神様の力に頼るので、私たちは神様ともっと親しく歩みます。そして、神様が私たちの心を変えてくださいますので、私たちの人生は変わります。

それが私たちが聖くなるプロセスです。

あなたはどうですか。神様の聖さに飢えるでしょうか。

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アモス書

神様に戻る事が無理になる時

見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。(アモス書7:8)

「重りなわ」というのは、大工道具の一種で、レベルのようなものです。この道具を使うと、壁がまっすぐかどうか確認できます。

つまり、神様はイスラエルを計りましたが、彼らが曲がっていたため、取り壊さなくてはならなかったのです。

8章では、神様はイスラエルを夏の果物(つまり熟した果物)と呼びました。つまり、イスラエルは裁きのために熟していた状態でした。

どうしてイスラエル人はそのように曲がってしまったのでしょうか。それは、以前述べたように、彼らが神様に聞くことをやめてしまったからです。

預言者たちが良いことを言うと、イスラエル人は喜んで聞きましたが、預言者たちが彼らを責めると、イスラエル人は「黙れ」と言って聞くのを拒みました。

7章では、そのような例を見ることができます。アモスがヤロブアム王の没落を預言したため、ある祭司がアモスを反逆者だと責め立てたのです。その祭司はこう言いました。

先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。(7:12-13)

神様のレベル、つまり神様の御言葉を捨てると、何がまっすぐで、何が曲がっているのか、また何が正しいことで、何が悪いことなのか分からなくなります。

この世には、そのような人々が見られます。多くの人々は正しいことを悪いと言い、悪いことを正しいと言います。

そして、もし私たちがずっと神様の御言葉を無視し続けるなら、最終的に神様は私たちにもう語らなくなるでしょう。8章では、神様はイスラエル人にこう言われました。

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――

その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。(アモス書8:11-12)

実は、マラキからバプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、神様は沈黙されていました。だから、ヨハネがついに来たとき、彼の言葉を聞くために多くの人々が集まってきました。

しかし、多くの預言書と同じように、神様はご自分の忠実さを示し、イスラエルに希望を与えられました。つまり、神様はイスラエルを罰するとともに、最終的には彼らを癒すと約束されたのです。また、神様はイスラエルの廃墟を復興するとも約束されました。

では、どうして神様はイスラエルにその憐れみを与えるのでしょうか。それは彼らの義によるのでしょうか。それとも、彼らの行動によるのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは神様の愛と慈しみによるのです。

パウロがこのように書いています。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス書3:5)