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列王記第二のデボーション

神のさばき、神の忍耐

ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い。。。

それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。

見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。(列王記第二21:11ー12)

マナセ王のことを考えたとき、神様の忍耐とあわれみは私の心をもう一度打ちました。

マナセ王はたぶん、ユダの王たちの中でもっとも悪い王でした。

彼はユダに偶像礼拝を復活させたり、自分の息子をその偶像に捧げて火の中を通らせたり、たくさんの人々を殺したりしました。

ユダヤ人の伝承によると、その時、預言者イザヤは「のこぎりで引かれました。」(へブル11:37)

そういうわけで神様はマナセとユダに判決を下しました。それでも、そのさばきは何年もユダに降りかかりませんでした。

なぜでしょうか。なぜなら、神様の望みは彼らが悔い改めることだったからです。

驚くべきことですが、マナセは最終的に悔い改めました。(歴代誌第二33:10ー13)

あいにく、マナセの息子であるアモンは悔い改めませんでしたが、その孫であるヨシヤは悔い改めたので、ヨシヤが死ぬまで、そのさばきはユダに降りかかりませんでした。

マナセの話を考えて、私は自分への神様のあわれみを思い出しました。

私が神様の目に忌み嫌うことを何度も犯したのに、神様は私をあわれんでくださいました。

神様の忍耐は本当に素晴らしいです。私は心から神様に感謝しています。

ダビデもその忍耐とあわれみを経験して、こう歌いました。

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:8)

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ペテロの手紙第二

神様の忍耐

以前の記事で、私は、神様がこの世の悪や不正義に対して何もしないという人々の文句について話しました。

しかし、私が指摘したのは、最終的に正義が行われ、その真理が確かなものであるということです。イエス様を信じる人にとって、それは希望です。けれども、イエス様を拒絶する人にとって、それは恐れです。

とはいえ、ある人々は裁きの日について考えるとき、希望も持たず、同時に恐れも感じていません。ペテロはそのような人々について次のように言います。

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(ペテロの手紙第二3:3-4)

今なお、そのような人々がいます。実際、イエス様が2000年以上も来ていないため、不信者たちのあざ笑いはさらに増えていることでしょう。しかし、ペテロは次のように言います。

こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(5-7) 

その人々によれば、神様はこの世のことに決して介入しないので、この世には何も変わらないと言います。けれども、その考え方は間違っています。

この世を造られたとき、神様の力によって、大陸は海から現れ、生き物を支える大気が造られました。

そして、悪がこの世に横行した時、神様は再び介入され、大洪水によってノアとその家族以外のこの世の人々を滅ぼされました。

だから、ペテロは私たちに警告します。「神様はもう一度、介入されます。けれども、今度の裁きは火による裁きです。」

ペテロは次のように言います。

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)

また、

そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(12)

私たちがペテロの言葉を文字通りに解釈した方が良いかどうかは分かりません。けえども、明らかなのは、私たちが知っているこの世は終わりを迎えるということです。

もしかすると、神様はこの世を完全に新しくされるのかもしれません。または、神様がすべてを滅ぼし、全く新しいものを造られるのかもしれません。

いずれにしても、ペテロは次のように言います。

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13) 

では、どうしてクリスチャンたちはこれほど長く待たなければならないのでしょうか。なぜ神様は、今この世を滅ぼし、すべてを新しくされないのでしょうか。

ペテロはその答えを示しています。

しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(8-9)

また、

私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(15)

基本的に、ペテロが言っているのは、神様の忍耐によって、人々に悔い改める時間が与えられているということです。けれども、その忍耐はまるで両刃の剣のようなものです。

もちろん、その忍耐によって、人々は神様を信じるための時間を与えられています。そのため、裁きの日が来る前に、多くの人々が救われます。

けれども、その一方で、人々の責任は増していきます。そのため、不信者たちは裁かれる時、言い訳をすることはできません。

だからこそ、私たち全員が自分自身に問いかけなければなりません。「神様がこの悔い改めの時間を与えてくださっている中で、私はどうするのだろうか?」

あなたはどうするのでしょうか。

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ナホム書

確かな裁き

このブログの英語版を書いているとき、私はこう思いました。

「いつになれば列王記第二と歴代誌第二を読み終えることができるのだろうか。少ししか残っていないけれど、この預言書が邪魔に感じるなぁ。」

おそらく、イスラエル人もそのように感じていたでしょう。

彼らは罪深い生活を続けたいと思っていましたが、預言者たちはその生活を妨げました。だから、イスラエル人は預言者たちが黙ることを望んでいたのです。

けれども、イスラエル人がナホム書を読んだとき、多分慰めを感じたことでしょう。実は、ナホムという名前は「慰め」を意味しています。

ナホム書では、ナホムはイスラエルの敵であるアッシリヤの崩壊を預言しています。具体的には、アッシリヤの首都ニネベの滅亡を預言しているのです。

ヨナ書では、神様がニネベ人たちを彼らの罪のために裁こうとされましたが、彼らはへりくだり、悔い改めました。だから、神様は彼らに憐れみを与えられたのです。

しかし、その後すぐに彼らは再び罪に戻ってしまい、神様は再び彼らを裁こうとされました。今回は、彼らが悔い改めなかったため、裁きが実行されたのです。

この預言書がいつ書かれたのかは誰も知りません。おそらくマナセ王の時代(列王記第二21章)とヨシヤ王の時代(列王記第二22章)の間に書かれたのでしょう。

とにかく、ナホム書の冒頭では、私たちは「怒りの神」を目にします。(もしあなたがそれに違和感を覚えるなら、ここをご覧ください)。

ナホムはこう書きました。

主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。(ナホム書1:2)

怒りの神ですよね。けれども、第3節にはこうあります:「主は怒るのに遅い神です。」

そのため、ニネベの人々が悔い改めたとき、神様は彼らに憐れみを与えられました。そして、彼らが再び罪を犯し始めたとき、神様は彼らに悔い改める時間を与えられました。

もしナホムがマナセ王の時代にこの書を書いたとしたら、神様はおよそ50年間待たれたことでしょう。

もしヨシヤ王の時代に書いたのだとしたら、神様は約30年間待たれたのではないかと思われます。

けれども、彼らは悔い改めませんでした。だから、神様は彼らに警告を発せられたのです。

主は決して罰せずにおくことはしない方。(1:3)

ナホム書1:2-3を読めば、大体ナホム書のメッセージが分かります。

神様に信頼して従う人にとっては、

主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。(1:7)

でも、ニネベに関して、ナホムはこう言いました。

しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。(1:8)

また、

王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ。ニネベは水の流れ出る池のようだ。

みな逃げ出して、「止まれ、立ち止まれ」と言っても、だれも振り返りもしない。

銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ。

破壊、滅亡、荒廃。心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる。(2:7-10)

なぜでしょうか。3章では、ナホムは説明します。

ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない。

むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。

おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体。死体に人はつまずく。

これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。(3:1-4)

ニネベの人々は何年も周囲の国々を攻撃し、人々を殺し、その財産を奪いました。

なぜでしょうか。それは、彼らが力と富を愛していたからです。また、彼らは偽りの神々を礼拝し、その偶像崇拝を他の国々に広めました。

だからこそ、神様はこう宣言されました。

見よ。わたしはあなたに立ち向かう。。。わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする。

あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。「ニネベは滅びた」と。

だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか。(3:5-7)

彼らの残虐行為があまりにも多かったため、誰一人としてニネベを悼む者はいませんでした。

最後に、ナホムはこう書きました。

あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。

あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。(3:19)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

それは、裁きが確実に訪れるということです。神様は忍耐強く、憐れみ深いお方です。神様は、おそらく私たちよりも長く人々の悔い改めを待っておられることでしょう。それは、神様が人々の滅びを喜ばれないからです。

しかし、いずれの日か、神様の忍耐にも終わりが来て、裁きが訪れるのです。

ニネベの人々の上に裁きが下されたように、私たちの上にも裁きが訪れます。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。。。(へブル9:27)

あなたは準備ができているでしょうか。