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詩篇

私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇は少し憂鬱な詩篇でしたが、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)が神様に焦点を当てているからです。

ダビデがこの詩篇を書いた時期ははっきりしませんが、多分王になった後に書いたと思われます。

この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、神様が彼をどのように守り導いてくださったかを振り返っていたかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (詩篇138:1)

どうしてダビデは神様をほめたたえたのでしょうか。それは、ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。

つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして助けてくださいました。

また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデが振り返ったとき、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対するすべての約束を守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返り、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様が十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々のことを思い出してください。また、あなたがイエス様に出会った時の状況を思い起こしてください。そして、神様がその時から今日までしてくださったことを思い出してください。

その同じ神様は今でもあなたと共におられます。神様はあなたを見捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても、神様の恵みはとこしえにあります。

そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

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詩篇

捨てられた?

私は詩篇を読み通した時、同じテーマがよく繰り返されることに気づきました。つまり、時々詩人には、目に見えない神様との関係が本当に難しいものであったのです。私にもそう考える時があるので、少し慰められます。

詩篇77篇はそのような詩篇です。詩人は叫びます。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。(詩篇77:1-2)

どれぐらい私たちにはそんな経験があるでしょうか。私たちは神様に叫びますが、何も聞こえません。そして、悩んでいる心のせいで、私たちは眠れません。

だから、詩人のように、私たちは問い始めます。

「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ (7-9)

言い替えれば、「あなたは私を捨ててしまったのでしょうか。私を諦めたのでしょうか。私がもうだめだと思われるのでしょうか。」

しかし、失望の中で、彼は叫びます。

「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

。。。あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。(10-15、20)

急に詩人は神様が彼を捨ててしまった考えを捨てます。彼は言います。

「あなたが私を捨てるのが信じられません。なぜなら、あなたは私のために多くのことをしてくださったからです。

あなたは私を愛してくださったので、私とあなたの民を贖ってくださり、羊のように私たちをこの良い土地に導いてくださいました。

その愛によって、私はあなたが私を捨てたという考え方を拒絶します。」

それが信仰です。私たちは神様が見えなくても、信じ続けます。その瞬間に私たちは神様の臨在を感じなくても、神様が私たちを捨てずに、私たちと共におられることを信じ続けます。

とはいえ、それは盲信ではありません。なぜなら、振り返る時、私たちの人生に神様の力と愛の事例が見えるからです。

だから、捨てられたと思う時、詩人のように、神様の慈しみを思い出し、以前、私たちと共におられた神様が、まだ私たちと共におられることを思い出しましょう。

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マラキ書

虚しい?

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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エゼキエル書

神様が言われた通り

この箇所では、私たちは神様の忠実さをはっきりと見ることができます。つまり、もし神様が何かを語られるなら、私たちはその言葉を信じることができるのです。

この箇所では、神様はエルサレムの追放について話されています。具体的には、神様はユダの最後の王ゼデキヤの追放について語られました。

そのため、神様はエゼキエルにユダ人の前で小さな劇を演じるよう命じられました。

エゼキエルはゼデキヤの役を演じました。夕方、彼は家の壁に穴を開け、捕囚のための荷物を持ってその穴から出て行きました。そして歩きながら顔を覆いました。

その劇が意味することとは何でしょうか。

ゼデキヤは暗闇の中、エルサレムから逃げざるを得ませんでした。しかし、彼は捕らえられ、目を潰されてバビロンの王ネブカデネザルの前に連れて行かれることになる、ということです。

さらに、イスラエル人は諸国に散らされました。神様が語られた通りに、すべてそのように起こったのです。

どうして神様はエゼキエルとイスラエル人にそのメッセージを伝えられたのでしょうか。

それは、その預言が成就したときに、彼らが神様だけが主であることを知るためです。

イスラエル人にとって、その真理を受け入れることは簡単ではありませんでした。そして、神様が長い間忍耐を示されたため、彼らは次第に神様の裁きの警告を信じなくなっていました。

彼らはこう言いました。

日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。(エゼキエル書12:22)

エゼキエルの時代には、それはよく知られたことわざでした。イスラエル人は、エゼキエルやエレミヤの幻を嘘や妄想だと思っていました。

しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。

かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する』と彼らに告げよ。

もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。

それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。

反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ――」(23ー25)

神様の言葉は、いつでも私たちが信頼することのできるものです。

神様からの預言だけでなく、神様の約束も信じることができます。神様が何かを約束されたなら、その約束は必ず守られます。

では、神様はどのような約束を私たちに与えてくださったのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1;9)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

それだけではなく、聖書には神様からの約束が数多く記されています。

ですから、私たちはその約束にすがり、信じ続けましょう。神様の言葉はいつでも私たちが頼ることのできるものだからです。