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詩篇のデボーション

神様の恵みを当然と思い、神様ご自身を軽んじる?

私たちの先祖はエジプトであなたの奇しいみわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず。。。(詩篇106:7)

どれだけ、その言葉は、イスラエル人の先祖だけではなく、私たちにも該当するでしょうか。

私たちは神様の救いの奇しいみわざの意義を悟らず、十字架で現れた神様の豊かな恵みを思い出しません。

むしろ、私たちは、神様が私たちのためにしてくださったことを忘れてしまいます。(13a)

私たちは主のさとしを求めず、自分の知恵に従います。(13b)

私たちの古い罪深い生活のものを慕います。(14a)

私たちは神様を試み、神様が本当に私たちと供におられるかどうか疑います。(14b)

神様が備えてくださった良いものを軽んじて、神様の約束を疑います。(24)

私たちは不平を言って、神様の御声を聞きません。(25)

私たちの文化の道を行き、神様の道を捨ててしまいます。(35)

私たちの文化が礼拝する神々が私たちに対して罠になって、私たちはその神々に仕えます。(36)

私たちは自分の行為によって自分を汚し、神様に対して霊的な姦淫を犯してしまいます。(39)

そのすべてをそうするのに、私たちが悔い改めると、神様は私たちに恵みを豊かに与えてくださいます。

モーセや祭司ピネハスが神様の御前に立ち、イスラエル人のためにとりなしたように、イエス様は天の父の御前に立ち、私たちのためにとりなしてくださいます。(23ー30)

私たちが神様の恵みを当たり前のものだと決して思わないように。私たちがイエス様とその十字架での苦しみを決して軽んじないように。

むしろ、感謝と賛美に満ちた心を持って、こう歌いましょう。

ほむべきかな イスラエルの神 主。 とこしえから とこしえまで。(48)

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詩篇

私にかかわる計画を成し遂げてくださる神

詩篇137篇は少し憂鬱な詩篇でしたが、138篇は励ましてくれる詩篇です。なぜなら、この詩篇では、詩人(ダビデ)が神様に焦点を当てているからです。

ダビデがこの詩篇を書いた時期ははっきりしませんが、多分王になった後に書いたと思われます。

この詩篇を書きながら、彼は自分の人生や、神様が彼をどのように守り導いてくださったかを振り返っていたかもしれません。

彼はこのように歌い始めました。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。 (詩篇138:1)

どうしてダビデは神様をほめたたえたのでしょうか。それは、ダビデに対する神様の恵みとまことのためです。

つまり、ダビデが苦しんで神様に叫んだとき、神様は天から手を伸ばして助けてくださいました。

また、ダビデが殺されると思ったとき、神様は彼に勇気を与えてくださいました。

だから、ダビデが振り返ったとき、神様の偉大さと忠実さを見ることができました。神様はダビデに対するすべての約束を守りました。

だから、ダビデはこう歌いました。

主よ。地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。

彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。(4-5)

また、神様の忠実さによって、ダビデは確信を持ってこう言いました。

主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。(8)

あなたは疑いと戦っているでしょうか。迷って、神様に捨てられたと思いますか。

あなたの人生を振り返り、神様のあなたに対する忠実さを思い出してください。イエス様が十字架であなたのために何をしてくださったかを思い出してください。

あなたをキリストに導いてくれた人々のことを思い出してください。また、あなたがイエス様に出会った時の状況を思い起こしてください。そして、神様がその時から今日までしてくださったことを思い出してください。

その同じ神様は今でもあなたと共におられます。神様はあなたを見捨てられなかった。私たちがどんなに失敗しても、神様の恵みはとこしえにあります。

そして、「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」

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詩篇

救いの歌

イエス様がこの世に再臨される日に、クリスチャンたちが詩篇を歌うなら、多分この詩篇を歌うでしょう。なぜならこれは救いの讃美歌だからです。

多分、詩篇118篇の詩人よりも、この詩篇は私たちにとって意味があると思います。

新エルサレムに入る時、多分私たちはこう歌うでしょう。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

どうして私たちはそう歌うでしょうか。なぜなら、私たちが苦しんだ時、また私たちが自分の罪によって死にかけていて、神様に叫んだ時、神様は私たちを自由にしてくださったからです。

それに、毎日、神様は私たちを見守ってくださいます。人々は私たちの体を滅ぼすかもしれませんが、私たちの魂を滅ぼすことはできません。だから詩人はこう歌いました。

主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。(6)

そして詩人はどのように神様の力によって敵を断ち切ったか歌います。そのように、神様は私たちにサタンに対する勝利を与えてくださいます。だから、私たちもこう歌います。

おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。。。

主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。(13-17)

時々、詩人のように、私たちは神様の懲らしめの手を見ることがあります。けれども、神様は私たちを滅ぼすために懲らしめるのではなく、私たちに命を与えるために懲らしめてくださいます。

だから、私たちはエルサレムの門に着くとき、門番にこう言えます。

義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。(19)

どうして、私たちにはその門に入られる確信があるでしょうか。それは、私たちが救いの基礎を知っているからです。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。

これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(22-23)

イエス様は私たちの救いの礎の石になりました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶しましたが、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちは救いを見つけることができます。

だから、毎日私たちの希望が新しくなり、私たちは歌うことができます。

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(24)

そして、イエス様がエルサレムに来られたとき、人々が叫んだように、いつか私たちも歌います。「ホサナ。ああ、主よ。どうぞ救ってください。」(25)

けれども、私たちがそう歌う時には、もう救いが来るのを待っているのではなく、むしろ、私たちの救いを振り返ります。そして、もう一度、私たちは歌います。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(29)

アーメン。イエス様、すぐに来てください。