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ルカの福音書のデボーション

神様の慈しみを心に留める

しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカの福音書2:19)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「どれだけ、私はそうするだろうか。神様が私のために良いことをしてくださるとき、その出来事を私の心に納めるだろうか。どれだけ、私はその出来事に思いを巡らすだろうか。」

神様が私たちのためにしてくださったことを忘れるのは、簡単なことです。私たちは、意識してその出来事を自分の心に納めないと、苦しみの中で絶望するのも、簡単なことです。

私たちの人生では、剣が私たちの心を刺し貫く時もあります。(35)

だから、そんな時が来る前に、神様がご自身の慈しみを私たちに現してくださるとき、神様が何をしてくださったかを、私たちの心に納めましょう。

いっそのこと、神様の慈しみを忘れないように、日記やスマホ、コンピューターのWordファイルなどに、神様が何をしてくださったかを書き留めましょう。そして、神様の慈しみに思いを巡らしましょう。

それだけではなく、羊飼いたちのように、周りの人々に、神様が私たちのためにしてくださったことを伝えましょう。

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詩篇のデボーション

弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

神の慈しみと配剤

今日の詩篇を読むと、山上の説教にあるイエス様の御言葉を連想しました。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。

あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ6:25ー26)

私は分からないけど、もしかしたら、イエス様はその言葉を言われたとき、この詩篇を考えておられたかもしれません。

この詩篇では、詩人は何回も、神様が動物に食べ物や、水や、住まいを備えてくださることについて話します。

もし神様が動物のことを心配してくださるなら、神様が私たちのことを心配してくださることはなおさらでしょう。

でも、どれだけ私たちは自分の心配事をくよくよとするでしょうか。

そうせずに、詩人の祈りを歌った方がいいと思います。

私はいのちの限り、主に歌い、生きるかぎり、私の神をほめ歌います。

私の心の思いが みこころにかないますように。

私は主を喜びます。(詩篇104:33ー34)

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詩篇

あなたが落ち込んでいる時

私たち皆は、鬱状態になることがあります。時々、私たちは落ち込んで、希望がないと思います。

この二つの詩篇の詩人も同じように感じました。彼は本当に心を打つ描写を使います。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2)

アダム・クラークという聖書学者は、この箇所について興味深いことを言いました。

鹿は追いかけられて、本当に疲れて、のどが渇いた時、川に飛び込んで隠れます。その鼻だけが出ています。

私たちも時々そう感じます。八方から攻撃され、疲れ果ててしまいます。だから、私たちは疲れと恐れを抱えて、神様を慕いあえぎ、神様の腕の中に飛び込みます。

けれども、時々、どこを見ても神様を見つけられません。だから詩人のように私たちは叫びます。

いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(2)

また、詩人のように、私たちは食事を楽しめなくなり、涙が私たちの食べ物になります。

そして、私たちは良い時を思い出します。

その時、教会に行って、友達と一緒に喜びました。また、私たちが祈った時、神様が近くにいて、神様に触れられるように感じました。

しかし今、嵐の中で私たちは溺れているように感じます。何度も大波が私たちの上を越えて行き、希望が失われます。

時々、私たちは自分自身を励まそうと思って、詩人のようにこう言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。(42:5-6)

けれども、すぐに落ち込んで、私たちは神様に尋ねます。

なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。(9)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。

一つ目は、あなたが普通の人間であることです。その感情を経験する人は、あなただけではありません。

サタンのよく言う嘘は、「あなただけです。」ということです。

「そんな経験をするのはあなただけだ。あなただけが心の中で苦しむのだ。」

だから、私たちは恥ずかしくなります。他の人には自分の感情など分からない、と思います。

しかし、この詩人は分かっていました。だから、神様はこの詩人にこの詩篇を書かせたのです。

この詩篇によって、私たちは思い出します。「私だけじゃない。他の人も私の戦い、私の苦しみを分かってくれる。」

だから、私たちはどうすれば良いでしょうか。

まず一つ目は、神様が良い方であることを信じ続けることを選択することです。41-42篇で、詩人は3回言います。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。

神様があなたの神であることを思い出しましょう。神様があなたを愛して、御子イエス様を私たちを救うために送ってくださったことを思い出しましょう。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。(42:8)

つまり、あなたが良い時の光の中にいても、悪い時の暗闇の中にいても、神様はあなたを決して捨てておられません。あなたが神様の臨在を感じなくても、神様はあなたのそばにおられます。

だから、詩人のように祈りましょう。

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(43:3)

詩人はこう言っています。

「主よ、あなたが見えず、私をどこに導いておられるのか分かりません。どうか、あなたの光を私の上に照らしてください。私が進むべき道を教えてください。

あなたが私を捨てたという嘘を信じないように、どうか私をあなたのもとへ導いてください。」

もう一つ、言いたいことがあります。

あなたが落ち込んでいる時、クリスチャンの友達に話しましょう。彼らは不完全な人ですが、この世にあるキリストの体として、彼らがキリストの手、足、口、耳であることを覚えておきましょう。

そうすれば、あなたが一人ぼっちではないと分かります。