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ヨハネの黙示録

裁きと救いに現れる神様の栄光

私は何度も言いましたが、私たちは反キリストと向き合うと信じています。

私がわからないのは、七つの鉢から神の憤りが地に注がれるとき、私たちがまだこの地にいるかどうかということです。イエス様がもう一度この世に来られるとき、その七つの鉢は、この世の人々に対する神様の最後の裁きです(黙示録16:1)。

私の意見ですが、その時には、たぶん私たちはもうこの地にいないと思います。

以前は、イエス様が再臨されると、私たちが空中でイエス様に会って、すぐにこの地に戻ると考えていました。でも黙示録14〜15章を読んでから、私の意見は変わりました。

もしかすると、神の憤りが地に注がれるまで、私たちは待ち、その後にイエス様がとうとうオリーブ山に着かれるのかもしれません(ゼカリヤ書14:4)。

14章では、御使いが雲の上に座っておられる人の子のような方に呼びかけます。その方の頭には金の冠、手には鋭い鎌があります。

その方は誰でしょうか。おそらく、それはイエス様です。

そして、御使いが大声で叫びます。

あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。(黙示録14:15)

イエス様はそうされますが、イエス様は何を刈り取られるのでしょうか。

おそらく、イエス様はご自身に属する人々を刈り取られるのだと思います。最後の警告はすでに宣言され、ある人々はその警告に耳を傾けましたが、他の人々はそれを無視しました。

しかし今、時が満ちたので、イエス様はご自身の民を、ご自身とともにおられるために集められるのです。だから、この地に残されたのは、イエス様を拒絶した人々だけです。

その後、もう一人の御使いが天の神殿から出てきて、彼も鋭い鎌を持っています。そして、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに、その鎌を地に送るよう命じます。

その「祭壇」とはどの祭壇でしょうか。おそらく、それは8章に登場する祭壇のことです。そこでは、聖徒たちによる正義のための祈りが、神様の御前に立ち上りました(8:3–4)。

どうして私はそう思うのでしょうか。なぜなら、御使いが鎌を投げて地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れたからです。

その時代、ぶどうは踏まれ、その汁が踏み場から流れ出ました。同じように、神様を拒絶した人々は踏みつけられ、その血が約三百キロメートルにわたって流れ、その深さは一〜二メートルに達するほどでした。それは非常に恐ろしい描写です。

15章では、私たちは14章の出来事をさらに詳しく知ることができます。

ヨハネは、火が混じったガラスの海のようなものを見ます。そのそばに、イエス様に刈り入れられたクリスチャンたちが立っています。その人々は獣に打ち勝った者たちです。

聖書の時代、海は悪や混沌の象徴と見なされていました。けれども、聖徒たちはすでに試練の火を通過しています。だから、彼らはモーセと子羊の歌を歌うのです。

主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。

主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。

あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。(黙示録15:3-4)

その後、神殿が開かれ、七人の御使いが七つの災害を携えて神殿から出てきます。そして、七人の御使いたちは神の憤りが満ちている七つの金の鉢を手渡されます。そして、

神殿は、神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその神殿に入ることができなかった。(8)

その聖句は、私の心に深く響きました。

神様の栄光が救いによって現れることは、言うまでもありません。救われた人々の賛美を通して、その栄光を仰ぐことができます。

しかし、救いだけでなく、神様の裁きを通しても、神様の栄光は現れます。なぜでしょうか。その裁きには、神様が愛だけではなく、正義の神であることが示されています。

もし神様が愛の神であるだけで、正義の神でないとしたら、果たして神様を「善い方」と言えるでしょうか。悪を決して罰しないなら、神様の善性を問われることになるでしょう。

神様は忍耐強いお方です。けれども、やがて必ず正義を実行されます。そのとき、神様の栄光と善良さがあらわになります。

ですから、神様のご性質を考えるとき、愛だけでなく正義もまた、神様のご性質であることを心に留めておきましょう。

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ペテロの手紙第一

神様の御心に従って生きる(2)

多くの人々は、自分の人生における神様の御心を知りたいと願います。

けれども、神様の御心について考えるとき、彼らが求めるのは、「私はどの仕事を選ぶべきか」「誰と結婚すべきか」「どの奉仕活動に参加すべきか」といった具体的な問いに対する答えです。

しかし、ペテロが神様の御心について語るとき、そうした具体的なことには触れていません。むしろ、ペテロは神様の御心を、神様に栄光を与えるために生きることだと定義しています。

多くの人々は「神様の御心を知りたい」と言いながらも、日常生活において、神様の栄光ではなく、自分の栄光のために生きています。

では、どのようにすれば私たちは神様の栄光のために生きることができるのでしょうか。

まず第一に、私たちは互いに愛し合うべきです。ペテロはこう言いました。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(ペテロの手紙第一4:8)

ギリシャ語で「熱心」という言葉には、限界を超えるというニュアンスが含まれています。たとえば、ランナーが競走で勝つために自分の限界を超え、さらに速く走ろうとするようなものです。

そのように、私たちも自分の愛の限界を超えて、互いに愛し合うべきなのです。

そのようにしていく中で、私たちは多くの罪を覆います(8b)。つまり、愛によって、私たちは相手の罪や欠点を寛大な心で受け入れ、許すことができるのです。

また、私たちがキリストを知らない人々にイエス様の愛を示すなら、彼らはイエス様に魅せられるかもしれません。そして彼らがイエス様に向かうと、イエス様は彼らの人生に働きかけ、彼らの罪を清めてくださいます。

この意味においても、愛は人々の罪を覆う力を持っています。

いずれにせよ、人々への私たちの愛を通して、私たちは神様に栄光を与えることができるのです。

ペテロは続けてこう言います。

不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9)

私たちが苦しんでいるとき、気前の良い態度で人々を助けるために自分を捧げることは、とても難しいかもしれません。しかし、キリストの模範に従い、たとえ苦しみの中にあっても自分自身を捧げるならば、私たちは神様に栄光を与えるのです。

最後に、ペテロは私たちに、神様から与えられた賜物を忠実に活用し、互いに仕え合うことを思い出させます。ペテロはこう言いました。

語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。

すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)

言い換えれば、私たちのすべての賜物が神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。

また、その賜物が効果的に用いられるのは、神様の力だけによるということを覚えておく必要があります。その結果として、人々は私たちを称賛するのではなく、神様をほめたたえるようになるのです。

あなたはどうでしょうか。神様の御心を知りたいと願っていますか。神様の御心とは、主に仕事や結婚、あるいは日々の細かな決断に関することではありません。むしろ、簡単に言えば、神様の御心とは次のようなものです。

あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

あなたは何のために生きているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちが神様の栄光で満たされるように

歴代誌第一には、ソロモンが神殿を完成させた後のこの出来事が、このように記されています。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

ソロモンの神殿が主の栄光で満たされたように、神様の望みは、ご自身の教会がその栄光で満ちることです。だから、パウロはそのために祈ったのです。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:16-19)

パウロは、ただ一人のエペソのクリスチャンに宛てて書いたのではありません。むしろ、すべてのエペソのクリスチャンたちを対象として書いていました。彼は「あなた」ではなく、「あなたがた」と記していたのです。

もちろん、パウロは個々のクリスチャン一人ひとりのためにそれを願っていました。

しかし、この祈りを記したとき、彼はエペソの教会のクリスチャンたちを「一つのもの」として捉えていました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンは一つだからです。

第2章では、パウロはそのことを繰り返し強調しており、第3章と第4章でも同じテーマが続けて語られています。

パウロの祈りを言い換えると、次のようにまとめることができます。

神様、あなたの御霊を通して、一人ひとりのクリスチャンの内に働いてくださる中で、あなたの教会全体に力を与えてください。

イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、どうか彼らの心のうちに住んでください。

天のお父様、彼らがあなたの愛にしっかりと根を下ろすことができますように。その愛が彼らの人生の土台となりますように。

そして、その愛に深く根差すにつれて、彼らが互いの兄弟姉妹への愛にも生きることができますように。

そのように愛に生きる中で、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さを共に理解し、知る者となりますように。

そして、かつてソロモンの神殿があなたの栄光で満たされたように、あなたの教会があなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。

それこそが、教会に対する神様の望みです。神様のご計画は、私たちが神様の神殿となり、神様の栄光に満たされて、その栄光をこの世に映し出すことです。

しかし、それは私たち自身の努力によって成し遂げられるのではありません。むしろ、神様が教会に力を与え、教会のうちに働いてくださるときに、そのことは実現するのです。

ですから、自分自身や教会を見て落胆しそうになるときには、思い出してください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うこと、思い描くことのすべてを、はるかに超えて成し遂げることのできるお方です(エペソ3:20)。

神様は今も奇跡を行われます。壊れた人生や教会を、栄光に満ちたものへと変えてくださるのです。私たちがすべきことは、ただ神様と協力することです。

そして、いつの日か、神様は私たちのうちにおいて、また、十字架で流された血によって私たちを贖われた御子において、栄光を受けられるのです。

ですから、絶望しないでください。むしろ、パウロの賛歌を私たちの祈りとして歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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コリント人への手紙第二

私たちは誰を宣べ伝えるのか

周りの人々は私たちを見て、どのような人物だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちは自分の立場や実績によって人々を感動させたいと願います。正直に言うと、私自身もその誘惑と日々戦っています。

誰もが周りの人々に認められたいと願います。しかし、もし人からの栄誉を求めて生きるならば、私たちは神様が与えられた目的を見失ってしまうのです。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント人への手紙第二4:5)

パウロは自分自身を売り込もうとはしませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようとはしませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝え、周りの人々をイエス様のもとへ導きました。

自分自身について、パウロはイエス様が命じられた態度を持っていました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だから、パウロは自分自身について語る際、基本的にこう言いました。「私は取るに足りない者です。大切なのはイエス様なのです。」

彼はコリントの人々にこう語りました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二4:7)

つまり、「私たちはただの器にすぎません。しかし、それは宝を宿す器です。さらに、私たちは弱く、壊れやすい存在です。」ということです。

パウロはこう勧めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。

それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱く、すでに打ち砕かれたはずです。外には戦いがあり、内には恐れがありました(7:5)

私たちは途方に暮れ、迫害され、倒されました。私たちは常に死の危機に瀕しています。

しかし、私たちが今も生きている理由は、私たち自身の偉大さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉大さです。そして、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

これこそが、私たちのための神様の目的です。神様が望まれるのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。そして、その光が私たちの周りの人々の心を照らし、彼らが救われることです(6)。

だから、パウロはこう語りました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身に問いかけるべきです。「私は誰のために、また何のために生きているのか。私の動機は何なのか。」

パウロにとって、その答えは明確でした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられたことを確信していました。また、パウロは、神様がパウロだけでなく、そのミニストリーを通して触れた人々も復活させることを確信していました。だからこそ、パウロは福音を宣べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じますか。あなたは、自分だけでなく、イエス様を信じる家族や友人、知人も復活することを信じますか。

あなたの人生は、あなたが何を信じるかを示します。

私たちは自分自身を売り込もうとしているでしょうか。それとも、人々をイエス様へと導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。それとも、神様に栄光を帰そうとしているでしょうか。

日々、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

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コリント人への手紙第一

私たちはぼんやりとイエス様を映し出すが…

この箇所を深く考えれば考えるほど、私たちがどのような存在になるのかに心が動かされます。

私たちの体は朽ちることなく、永遠に生きるものとなります。病にかかることもなく、傷つくこともありません。

さらに、パウロはこう述べました。

私たちは、土で造られた人(アダム)のかたちを持っていたように、天に属する方(イエス様)のかたちも持つことになるのです。(コリント人への手紙第一15:49)

パウロによれば、私たちの新しい体はイエス様のかたちを持つことになります。そして、イエス様が神様のかたちであるため(コロサイ1:15)、私たちは今よりもさらに神様のかたちを映し出すことになります。

アダムの子孫として、私たちは皆アダムの弱さを受け継いでいます。嫉妬、欺瞞、苦々しい思い、怒り、憎しみ、そして罪。それらによって、私たちにある神様の似姿は歪められています。

今の私たちの体は、かすかに神様を反映しています。けれども、新しい体を受けると、私たちは天使以上に神様の似姿をさらに映し出すことになります。

だからこそ、ヨハネはこう語りました。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

それでも、今の私たちの体を軽んじてはいけません。

パウロはこう書きました。

また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。(40-41)

つまり、神様が造られたものは、それぞれに輝きを持っているということです。

私たちの体は、不完全であり、朽ちゆくものですが、それでも固有の輝きを持っています。

目について考えてみてください。さまざまな部分が協力して働くことで、私たちは物を見ることができます。

また、耳も精巧なデザインを持っているため、私たちは音を聞くことができます。

さらに、脳と指の働きについて考えてみてください。何かを考えた瞬間、指はキーボードを打ちます。

私たちはこれらの機能を当然のものとして受け止めていますが、実はそれは驚くべきことなのです。

もちろん、私たちの体は不完全なものです。しかし、私たちを変えるために、神様は新しい体を受ける日まで待っておられるのではありません。

むしろ、パウロはこう述べています。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:18)

だから、私たちの将来の体だけに喜びを見出すのではなく、今の体の輝きにも目を向けましょう。

たとえぼんやりとしたものであっても、今の私たちの体は神様の栄光を映し出しています。だからこそ、私たちは周りの人々にその栄光を反映できるよう努めましょう。