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詩篇のデボーション

神に属する者たち

旧約聖書の時代、神様がユダヤ人たちをご自身の民として召されたとき、エルサレムは「神の都市」と呼ばれました。

しかし、詩篇87篇では、詩人は将来のエルサレム、すなわち天上のエルサレムを思い描いています。(ヘブル12:22〜23)

おそらく、ユダヤ人たちはこの詩篇を初めて読んだとき、驚いたことでしょう。なぜなら、彼らが最も憎んでいた敵さえも神様の民と呼ばれていたからです。

ラハブ(すなわちエジプト)やバビロン、ペリシテの民が神様の民と呼ばれました。また、ツロやクシュ(すなわちエチオピア)の民も神様の民と呼ばれました。

神様は彼らについてこう言われました。「彼らは部外者ではない。彼らは真の市民である。なぜなら、彼らは私の都市に生まれたからだ。」(詩篇87:5〜6節)

黙示録において、ヨハネはそのことについて書いています。

その後、私は見た。すると見よ。

すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。

彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(黙示録7:9ー10)

だから、私たちが誰であるかを忘れずにいましょう。

私たちは誰でしょうか。

私たちは神様に属する者です。

あなたが日本人であっても、韓国人、中国人、アメリカ人、オーストラリア人などであっても、イエス様を信じたとたん、あなたは神の国に生まれました。

パウロはこの真理を次のように説明しました。

(あなたがたは部外者であったとき)、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:12ー13、17ー19)

だから、私たちが誰であるかを覚え、神の民のすべての者たちとともに喜び歌いましょう。

私の泉はみな、あなたにあります。(詩篇87:7)

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詩篇

神様の民

詩篇87篇はエルサレムについてですが、この詩篇を読むとき、私は神様のご自身の民に対する愛がわかりますし、どのように神様が私たちのことを喜んでくださるかを見ることができます。

詩人はエルサレムについて歌います。

主は聖なる山に基を置かれる。

主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ (詩篇87:1-3)

どうして神様はエルサレムを愛されたのでしょうか。神様はエルサレムの城壁や建物を愛されたのではなく、エルサレムに住んでいた人々を愛されました。神様は彼らをご自身の民として選んで呼ばれました。

その愛によって神様がエルサレムを確立されたので、周りの国民はそれを見て、感心しました。

そして、エルサレムの敵、ラハブ(つまり、エジプト)や、バビロンや、ペリシテも、いつかエルサレムの栄光を見て、神様を認めます。

その時、彼らは「その人はシオンで生まれた。その人もシオンで生まれた」と誇ります。(4)

それに、神様は彼らの名前を登録して、「この民はここで生まれた」と認められます。

この詩篇を読むとき、私が考えるのは、これが教会のための神様の意図であるということです。

教会は建物ではなく、神様の民です。そして、神様がエルサレムの人々に愛を注いだように、私たちにも愛を注いでくださいます。

神様の希望は、私たちが周りの人々に影響を与えることです。また、私たちを憎む人々でも、私たちを通して神様を知ることです。

そして、私たち皆が新しいエルサレムに着いたら、神様は命の書を指して、「私が確立した教会で、その人は生まれました。その人も。その人も」と言われるでしょう。

多分、誇りを持って、神様はそう言われるでしょう。

そして、神様が命の書の名前のすべてを呼ばれた後で、私たち皆は歌います。

私の泉はことごとく、あなたにある。(7)

言い換えれば、「主よ。あなたは私の命と愛と喜びの源です。」

私たちは神様の民です。神様は私たちを愛して、喜んでくださいます。しかし、できるだけ、多くの人々を天国に連れて行きましょう。私たちは隠れることができない山の上にある町になりましょう。

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エゼキエル書

真の宮、神様の真の民

私が子供の頃、日曜学校で何度もこの言葉を聞きました。「教会は建物ではありません。教会は人々そのものです。」

確かにそれは真実ですが、完全な定義ではありません。教会とは、神に属する人々のことです。つまり、彼らの心は神様のものです。

残念なことに、イスラエル人の心は神様のものではありませんでした。

彼らは「神様の民」と呼ばれていましたが、神様に背を向け、偶像を礼拝しました。さらに、彼らはその偶像を神様の宮に置きました。

そのため、ついに神様はその宮を立ち去られました。ソロモン王がその宮を建ててからエゼキエルの時代まで、神様の臨在はそこにありました。(歴代誌第二5:14)

とはいえ、ソロモンの時代ですら、その宮は実際の神様の家ではありませんでした。その時、ソロモンはこう言いました。

それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌第二6:18)

それでもソロモンは、神様がいつもその宮を見守り、その宮で捧げられる祈りを聞いてくださるように祈りました。(歴代誌第二6:20-42)

ソロモンが建てた宮は本当に素晴らしいものでした。その宮は栄光に満ちた場所でした。

しかし、イスラエルの罪と神様に対する不忠実によって、神様の臨在とその栄光はその宮から離れてしまいました。

11章では、私たちはイスラエル人の頑固さを目の当たりにします。

イスラエルのリーダーたちは頑なにこう言いました。「何も悪いことは起こらない。私たちは偉い人だから。」

そのため、神様は彼らを責められました。そして、しるしとして、神様はそのうちの一人を殺されました。

そのとき、エゼキエルは叫びました。

ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。(11:13)

けれども、神様はこう答えられました。「いいえ、そうではない。私はバビロンに追放されたイスラエル人と共にいます。」

エルサレムに残った人々は、追放された人々についてこのように言っていました。

主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。(11:15)

追放された人々は、もしかするとエレミヤの助言に従ったのかもしれません。つまり、彼らはバビロン人に降伏しました。(エレミヤ書27:17)

そのため、エルサレムに残った人々は彼らを売国奴だと考えた可能性があります。

エルサレムに残った人々は、神様が追放された人々を拒絶されたと思ったかもしれません。なぜなら、神様はイスラエル人にその土地を与えたのに、その「売国奴」はその土地を去ったからです。

ところが、エルサレムに残った人々は神様の民ではありませんでした。エレミヤは彼らに神様の言葉を伝えましたが、彼らはその言葉を拒絶しました。

むしろ、バビロンに行った人々こそが神様の民でした。神様は彼らについてこう言われました。

「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

それゆえ言え。

「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」(11:16ー17)

また、

わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。

こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(19ー20)

真の宮とは何でしょうか。それは建物ではありません。

では、神様の民とは誰でしょうか。ただ教会に通う人ではありません。また、ただクリスチャン・ホームで育った人でもありません。

神様の宮とは、神様が住んでおられるところです。神様の民とは、神様に属する人々のことです。

つまり、神様は彼らの心に住んでおられるのです。そして神様は彼らに新しく、柔らかい心を与えてくださいます。そのため、彼らは毎日神様に従います。

私たち一人ひとりに、そのような心を持つことができますように。