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イザヤ書

平和へと導く道

神様は、反抗したイスラエルの民を叱った後、へりくだっている人々に憐れみを注がれました。そして、神様はこう言われました。

盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。(イザヤ書57:14)

この箇所では、神様は追放されたイスラエルの民がバビロンから帰還することを預言しています。それゆえ、神様はこう言われました。

「私の民の帰還のために道を整えよ。つまずきを取り除きなさい。」

そして、神様はクロス王の心を動かし、彼がイスラエルの民を自分の国に帰らせました。

しかし、この預言には二つ目の意味もあるのではないでしょうか。つまり、イスラエルの民が神様のもとに帰る道にもつまずきがありました。そして、神様ご自身がそのつまずきを取り除かれたのです。

神様は、私たちが義人になるのを待たれていたのではありません。それどころか、その前にイエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれました。

その働きによって、私たちは赦され、神様との関係が回復されたのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。へりくだって悔い改めましょう。そうすれば、神様は私たちにこう言われます。

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。(イザヤ書57:15-19)

わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。

私はその言葉が大好きです。多くの人々は神様を恐れ、罪を犯すと神様からの罰を待っています。

しかし、悔い改めるならば、神様はすぐに赦してくださいます。神様は私たちを義の道に導き、慰め、そして私たちの傷を癒してくださいます。その結果は――

平和です。

それでも、多くの人々は自分の道の虚しさに気づきません。そのため、彼らは自分の心を頑なにし、悔い改めることなく、自分の道を歩み続けます。

神様はそのような人々について、こう言われます。

しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。(20-21)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には平和がありますか。神様があなたの罪を赦してくださった平和を持っていますか。神様がもうあなたに対して怒っておられないことを、本当に知っていますか。

へりくだった心の平和を経験したことがありますか。悔い改めた心の平和を味わったことがありますか。あなたは自分自身の道を離れ、神様の道を歩んでいますか。それは平和へと導く道です。

あなたは、どの道を選びますか。

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イザヤ書

希望のないものをすがる

ある日、私の友人がこう訊きました。「どうしてサタンは戦い続けているのでしょうか。彼はすでに負けたと分かっているはずなのに。なぜ諦めないのでしょうか。」

また、他の人々はこう尋ねます。「どうしてサタンは悔い改めないのでしょうか。彼は悔い改めることができるのでしょうか。」

これは興味深い質問ですが、正直に言えば、私にはその答えが分かりません。

私の考えとしては、サタンは悔い改めることが理論的には可能かもしれませんが、決してそうしないと思います。彼は長い間神様に反抗し続け、その結果、彼の心が固くなりすぎているのだと感じます。

とはいえ、これはサタンだけの問題ではありません。人間もまた、そのような態度を取ることがあります。この箇所では、私たちはそのような態度を見ることができます。

イスラエルの民は神様に背を向けたため、追放されました。(実際にはそれは預言ですが、イザヤはまるでイスラエルの民がすでに追放されたかのように語っています。)

彼らは長い間、偶像を礼拝し続けましたが、その礼拝の虚しさを目の当たりにしても、悔い改めることを拒みました。

イザヤはイスラエルの民について、こう言いました。

あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。

わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。(イザヤ書57:10-11)

10節はイザヤ書40:29-31に少し似ています。けれども、イザヤは40章の言葉を少し変えています。

40章では、神様はこう言われました。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ書40:31)

この箇所では、残念なことに、イスラエルの民は自分の罪によって疲れ果て、希望のない状況を目の当たりにしても、「諦めた」とは言いませんでした。

それどころか、彼らは自分の罪にしがみつき、それによって元気を回復しようとしました。しかし、最終的に彼らはその罪のために滅びてしまいました。

では、あなたはどうでしょうか。希望がないにもかかわらず、自分の道を歩み続けていますか。

どうか、あなたの心を頑なにせず、自分自身の道を捨てて、神様の道を歩んでください。あなたの道は死へと導きますが、神様の道は命へと導きます。

どの道を選びますか。