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ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。

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神様の選びの神秘(3)

前回の記事で私たちが見たのは、神様が人々を裁くことを決められる一方で、その裁きを猶予されるということです。その間、神様は彼らにこう語られます。

「私はあなたを裁こうと思っている。それでも、私の判断が誤っていることを証明する機会をあなたに与えよう。もし私が間違っているなら、それを証明しなさい。あなたが滅びに値しないことを示しなさい。」

そして神様は忍耐をもって、彼らの応答を待っておられます。

エゼキエル書にも、神様の考え方が示されています。神様はエゼキエルにこう語られました。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。

イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。

彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

とはいえ、以前にも述べたように、問題は人々が悔い改めることなく、ますます悪くなってしまうことです。ファラオはその典型的な例の一つです。

神様はまずファラオに警告されました。その後、神様は彼を裁かれました。

それでも、ファラオは自分の心を柔らかくすることはありませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼は意図的に、自分の心を頑なにしたのです。

出エジプト記7:13、7:22、8:15、8:19、8:32、9:7において、そのパターンを見ることができます。

そして、その後、私たちは初めてこの言葉を目にします。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何度も自らの心を頑なにした後、神様は彼にこう語られました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはそれを聞き、さらにもう一つの奇跡を見た後、一時的に心を柔らかくしました。ところが、すぐに再び自らの心を頑なにしてしまいました。(出エジプト記9:34)

その後、神様ご自身がファラオの心を積極的に頑なにされました。神様は基本的にファラオにこう語られました。

「あなたは自らの心を頑なにしたいのか。それならば、私はそのプロセスを速めよう。」

神様は、ファラオの心を変えるために、さらに何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。

確かに、そうだったかもしれません。それでも、神様にはそのような義務があったわけではありません。むしろ、神様には罪を罰する義務がありました。そして、神様はその義務を果たされたのです。

恵みの不思議さはこうです。

私たちはファラオ同然でした。私たちは自らの心を頑なにしましたが、それでも神様は私たちを罪の状態のままにはされませんでした。

さらに、神様は私たちに値する罰を与えられませんでした。むしろ、私たちがようやく神様を信じ、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからこそ、ファラオのような話を読むとき、私たちはファラオや他の裁かれた人々を見下すことなどできません。

むしろ、パウロはこう語ります。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(ローマ人への手紙9:23)

つまり、私たちがこのような話を読むとき、自分たちが裁かれた人々と同然であるにもかかわらず、神様が私たちを選び、救ってくださったことに驚くはずです。

私たちはかつて神様の民ではありませんでした。それでも、神様は私たちをご自身の子供として迎え入れられました。

私たちは神様の愛に値しなかったのに、神様はその愛を私たちに惜しみなく注がれました。(9章24~27節)

それこそが、恵みの不思議さです。

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神様の選びの神秘(2)

前回の記事の最後で、私はこう問いかけました。「もし私たちの救いが神様の選びによるのなら、神様はみだりに誰を救い、誰を地獄に送ることを決めているのでしょうか。」

もちろん、神様はみだりに選ばれることはありません。神様は確固とした計画を持っており、すべての決断はその計画に基づいています。

私たちの問題は、神様がその計画を私たちに完全に明らかにされていないということです。また、神様はご自身の決断の理由をすべて示されているわけではありません。特に、なぜある人々を救い、ある人々を救われないのかについては説明されていません。

そのため、この疑問をどのように考えても、私たちは完全に理解することはできません。神様はすべてをまだ明らかにされていないからです。

だから、多くの人々は、神様の選びが不公平に思えるのです。

神様は、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われました。(15節)

そして、パウロはこう記しています。「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。」(18節)

すると、人々はこう叫びます。

「不公平だ。どうして神様はある人を憐れむのに、ある人を憐れまないのか。

もし神様がある人々を憐れまず、その心を頑なにされるのであれば、どうして神様は彼らを地獄に送るのか。

それは彼らのせいではない。だって、誰が神の意図に逆らえるのですか。」(19節)

パウロは、二つの答えを示します。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ人への手紙9:20-21)

要するに、神様は創造主です。神様はご自身が造られたものを、思うままに扱う権利を持っておられます。また、神様はご自身の目的を果たすために、その造られたものを自由に用いる権利も持っておられます。

とはいえ、そのように述べた後で、パウロは興味深いことを語ります。

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(22)

パウロは何を伝えたいのでしょうか。たぶん、パウロのポイントはこうです。神様はご自身の計画を立てられましたが、滅びるべき怒りの対象となる人々にこう問いかけられました。

「あなたは私の判断が間違っていると思うのか。では、私の判断が誤っていることを証明しなさい。あなたが救いに値することを証明してみなさい。」

そして、神様は待っておられました。そして、さらに待っておられました。そして、さらに待っておられました。ところが、神様が待てば待つほど、人々はますます悪くなりました。

カナン人は、その例の一つです。アブラハムが初めてカナンに到着した時、神様は彼にこう語られました。

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15:16)

要するに、神様はアモリ人たちを裁くことを決められましたが、すぐにその裁きを実行されたわけではありません。むしろ、神様は彼らが滅びに値しないことを証明する機会を与えられました。

それでも、日々彼らが証明したのは、まさに自分たちがその裁きに値するということでした。そして、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに導かれた時、イスラエル人を通してその裁きを実行されたのです。

大洪水の前にも、神様は同じようなことをされました。ノアは長い間、周囲の人々に警告しました。「神様はあなたたちを裁くことを決断された。あなたが悔い改めなければ、必ず滅びるでしょう。」

ノアが箱舟を造っている間、彼は彼らに繰り返し警告していました。そのため、彼らには悔い改める機会が十分に与えられていました。

彼らは神様の判断が誤っていることを証明する機会を持っていました。彼らがそれほど悪い人間ではないことを証明する機会も与えられていました。

けれども、結局彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値するということでした。

だから、心に留めておきましょう。人々が本当に神様を求め、従いたいと願うのに、神様がみだりに彼らを地獄に送ることはありません。

彼らが「神様、私は悔い改めます。赦してください。」と言うのに、神様が「残念だが、私はあなたを選んでいないので、君は地獄に行かなくてはならない」と答えることは決してありません。

むしろ、人々が神様に背を向けることを選び、神様がどれほど悔い改めの時間を与えられても、彼らは自分が滅びに値することを証明してしまいます。

だから、パウロはこう語ります。

ですから、これ(つまり、神様の選び)は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(16節)

もし、神様の選びが私たちの願いや努力によるものなら、救われる人は誰もいないでしょう。なぜなら、神様が彼らを放っておかれたら、神様に従おうとする人は誰もいないからです。

だからこそ、神様の選びはただご自身の恵みと憐れみによるのです。

次の記事で、そのことをさらに詳しく説明します。