多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。
この箇所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。
パウロはこう言いました。
それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(ローマ人への手紙9:30-31)
パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。
それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。
しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。
パウロはこう言いました。
なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)
要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。
私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。
この例をちょっと考えてみてください。
「愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。
その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。
例えば、相手がプレゼントをくれるときに愛されると感じる人もいれば、何かをしてもらうときに愛されると感じる人もいます。また、褒められることで愛されると感じる人もいます。
とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。
例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。
もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。
だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。
そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。
でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。
アダムとエバの話を通して、神様の望みを知ることができます。神様は彼らにこう語られました。
「私に信頼しなさい。その木の実を食べてはならない。その実を食べると、あなたは必ず死ぬ。」
しかし、彼らは神様を信じずにその実を食べたため、神様との関係は壊れてしまいました。
聖書を読むと、このパターンが繰り返されるのを何度も目にします。神様は人々に「私に信頼しなさい」と語られましたが、彼らは神様を信じることなく、神様に背を向けてしまいました。
今もなお、このパターンは続いています。神様は人々にこう語られます。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて成し遂げたのだから。」
けれども、人々は神様を信じず、自分の努力によって義と救いを得ようとします。
だから、パウロはこう言います。
彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)
あなたはどうでしょうか。自分の努力と良い行いで神様を喜ばせようと思っているでしょうか。
それは無駄なことです。神様はあなたの努力を求めておられるのではありません。むしろ、神様はあなたの信仰を望まれています。
