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マラキ書

神様が値するもの

この箇所で、私たちはユダヤ人の主な問題を目にします。その問題はユダヤ人のすべての行動に影響を与えました。

では、その問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが神様を敬わなかったことです。神様に対する畏れを全く持っていませんでした。神様は大いなる方であり、大いなる王であるにもかかわらず、ユダヤ人はそのようには考えていなかったのです。

そのため、神様は彼らにこう問いかけられました。

子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。(マラキ書1:6)

驚くべきことに、祭司たちはこう尋ねました。「一体何を言っているのでしょうか。どのように私たちはあなたを敬わなかったのでしょうか。どのように私たちはあなたの名前を軽んじたのでしょうか。」

おそらく、彼らはこう考えたのでしょう。「私たちはきちんと仕事をしている。いけにえも捧げている。やるべきことはやっている。この上、神様は一体何を求めておられるのだろう。」

けれども、神様はこう答えられました。

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。

さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(8)

神様は律法をモーセとイスラエルの民に与えた際、いけにえには傷のない健康な動物を求められました。

ところが、ユダヤ人は神様を敬わず、自分たちが要らない足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

そのため、神様はこう言われました。

「あなた方は、総督を私以上に敬っている。私はあなたの王であるにもかかわらず。あなたの総督は最も良い物しか受け入れないのに、どうして私がこのような劣った物を受け入れると思うのだろうか。」

それに対し、ユダヤ人はこう言いました。

主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている。。。見よ。なんとうるさいことか。(12-13)

彼らは愛を持って捧げ物をすることはありませんでした。むしろ、捧げ物をすることは彼らにとって面倒な義務となっていました。その結果、彼らは神様を敬わず、その行動によって神様を軽んじました。

しかし、神様は彼らにこう言われました。

わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。(14)

あなた自身はどうでしょうか。神様についてどのように考えているでしょうか。私たちは、神様との関係の中でバランスを取ることが必要です。

イエス様は、「わたしはあなたがたを友と呼びました」と語られました。(ヨハネ15:15)

多くのクリスチャンにとって、その真実は心を打つものです。王の友となることは素晴らしい特権です。

けれども、私たちはイエス様が大いなる王であることを忘れてはなりません。イエス様は私たちの王として、私たちの敬いを受けるにふさわしい方です。

ですから、私たちは最も良いものをイエス様に捧げるべきです。それは、私たちのお金だけではなく、私たちの時間や人生も含まれます。

あなたは、神様に何を捧げているでしょうか。神様がふさわしいとされる敬いを捧げているでしょうか。