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申命記のデボーション

神様を喜ばせる礼拝

申命記12章で神様がイスラエルの人々に教えようとされたのは、彼らが自分自身の方法ではなく、神様の方法に従って礼拝しなければならないということです。

彼らは神様が命じられたとおりに礼拝しなければならなかったのです。

私たちの神様との契約はイスラエル人たちの契約とは異なりますが、新しい契約の下でも、私たちは自分自身が好きなような方法で神様を礼拝することはできません。

イエス様によれば、私たちは霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23ー24)

それは、ただ宗教的な儀式を行うことや賛美をすることではありません。

霊によって礼拝するとは、神様が私たちの心を完全に持っておられることを意味します。私たちの人生、行動、言葉のすべてが神様に対する礼拝となるのです。(ローマ12:1)

さらに、霊によって礼拝するためには、まことによっても礼拝しなければなりません。

神様を喜ばれるため、また私たちの人生が神様への礼拝となるため、私たちは神様のまことによって生きるべきです。

私たちは自分の真理を作ることはできません。

私たちは神様の言葉の中で、何を受け入れるか、何を受け入れないかを勝手に選ぶことはできません。

それは、自分自身の方法で礼拝することに他なりません。そのような「礼拝」は神様を喜ばれません。

あなたはどうですか。

神様の方法に従って礼拝していますか。

霊とまことによって礼拝していますか。

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マタイの福音書のデボーション

誰を喜ばせようとしているのか

そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(マタイの福音書15:12ー14)

パリサイ人たちがイエス様の言葉に腹を立てたとき、イエス様の弟子たちはそのことを気にしているようでした。しかし、イエス様はまったく気にしていないようでした。

実際のところ、私たちはすべての人々を喜ばせることはできません。

英語のことわざに、”If you try to please everyone, you’ll end up pleasing no one.” というものがあります。

つまり、「すべての人を喜ばせようとすれば、結局は誰も喜ばせることができない」ということです。

とくに、私たちは神様を喜ばせることができないままでいることもあります。

だからこそ、自問自答しなくてはならないのは、「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか」ということです。

もちろん、私たちはわざと人を怒らせようとしてはいけません。けれども、人を怒らせることを避けることができない場面もあります。

私たちの言動が人の考え方に反すると、彼らは怒ってしまうことがあります。

けれども、盲人に従えば、私たちも穴に落ちてしまいます。

私はそうしたくありません。

何よりもまず、私が望むのは、アバが私に「よくやった」と言ってくださることです。

あなたはどうでしょうか。

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サムエル記第二のデボーション

正義?

「ダビデは神のみ心に従ったでしょうか。」

今日の箇所を読んだ時、私はそう思いました。

サウルはギブオン人たちとの条約に違反して、多くのギブオン人を殺していました。(ヨシュア記9:3〜17)

そのゆえ、イスラエルの土地は霊的に汚され、飢饉が起こりました(民数記35:30〜34)。

その飢饉は三年間続き、ダビデは神様のみ顔を求めました。そして、神様はその飢饉の理由を明らかにされました。

ところが、そのあと、この話は少し霊的に濁ります。

ダビデはギブオン人たちに、何の償いを求めるか尋ねました。

彼らは、サウルの子孫7人を処刑するために引き渡してほしいと願いました。ダビデはその願いを叶えました。

しかし、ダビデは正しいことをしていたのでしょうか。

神様の律法によれば、殺人者の血以外によって土地は宥められることはありませんでした。(民数記35:33)

さらに、その律法によれば、子が父の罪のために殺されてはならなかったのです。(申命記24:16)

最後に、神様は、殺人者がすでに亡くなっている場合については何も命じておられませんでした。

けれども、殺人者が見つからない場合についての戒めはありました。それは、いけにえと祈りによって、その罪が赦されるということです。(申命記21:1〜9)

もしかすると、サウルの場合、神様は少し違う指示を与えられたかもしれませんが、おそらく似たような戒めを与えられたでしょう。

しかし、ダビデは神様にどうすればよいかを尋ねませんでした。

皮肉なことに、ヨシュアも初めてギブオン人たちに出会ったとき、同じような過ちを犯していました。(ヨシュア記9:14)

神様の恵みによって、その飢饉は終わりました。

それでも、ダビデの行為が神のみ心にかなっていなかったことを示唆するものがあるでしょうか。

私は、その示唆があると思います。

つまり、サウルの子孫が殺された後も、その飢饉はしばらく続いたということです。

実は、もう一つの違反がありました。神様の律法によれば、かけられた死体は翌日まで木に残されてはならなかったのです(申命記21:22〜23)。

その死体が埋葬されて初めて、飢饉は終息しました。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

私たちは神のみ言葉をよく知っているでしょうか。何が神様を喜ばせるか、喜ばせないかを知っているでしょうか。

もし私たちが神のみ言葉を知らなければ、良い意図があっても、神様を喜ばせないことをしてしまうかもしれません。

だからこそ、毎日神のみ言葉を読み、学びましょう。

その言葉によってのみ、私たちは神様をどのように喜ばせることができるかを知ることができます。

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箴言のデボーション

私たちの天の父の心

今日の箇所では、ソロモンは自分の子に書いています。でも、その言葉は、私たちに対する天の父の心を反映しています。

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに躍る。(箴言23:15ー16)

たぶん、多くの親たちはその気持ちが分かるでしょう。私たちの子供たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、私たちは喜ぶでしょう。

そのように、私たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、天の父は喜ばれます。

だから、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。(19節)

でも、それだけでなく、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。(26節)

他のどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられます。なぜなら、私たちの心が神様のものなら、私たちは喜んで神様に従い、その道を行きますから。

天のお父さん、私の心をあなたにゆだねます。

私の心があなたの道をまっすぐ進むように。私の毎日の生活があなたの心を喜ばせるように。あなたを愛しています。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。