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箴言

知恵はどこから始まるか

それでは、箴言を始めましょう。

実は、どのように箴言について書くかちょっと迷いました。なぜなら、箴言にはいろんなテーマがあるし、一つの章でも、いろんなテーマがあるからです。

最初は、「テーマごとに整理してみようか」とも考えましたが、最終的には、いつも通りの進め方で書くことに決めました。

初めに、ソロモンがどうして箴言を書いたか説明します。

これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。(箴言1:1-6)

箴言は誰のために書かれたのでしょうか。まず、わきまえのない者や若者のためです。(4)

つまり、彼らに分別を与えるためです。要するに、彼らが実世界に入る時、良い決断ができるようにするためです。

さらに、ソロモンは彼らに知識と思慮を授けたいと願っていました。そうすることで、彼らが自分の経済や人間関係において賢く決断できるようになるのです。

けれども、ソロモンは知恵がある者のためにも書きました。そして、箴言を通して、彼らは自分の理解を深め、指導を得ます。

私たちが年を取れば取るほど、「私はもう知っている」という態度を取ることが容易になります。

しかし、ソロモンが言っているのは、私たちが自分の知恵を深めなければならないということです。私たちの勉強は決して終わらないのです。

なぜなら、賢い人でも、知恵を忘れてしまい、愚かな決断をして、自分の人生を壊してしまうことがあるからです。

実は、ソロモンもそうでした。彼はこの世界で一番賢い人だったのに、自分の悪い決断によって自分の人生を壊してしまいました。

さて、知恵のカギは何でしょうか。ソロモンは7節でそのカギを教えてくれます。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7)

箴言9:10で、ソロモンはこれも書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(9:10)

知恵がある者は主を恐れます。私たちが主を恐れ始めると、私たちは知恵を知り初めます。

なぜでしょうか。なぜなら、神様は私たちの創造主だからです。神様は私たちの人生がどのようにうまくいくかを知っておられます。もし、何かのデザインを知りたいなら、そのデザイナーに尋ねた方がいいです。

しかし自分の道に行こうとしたら、最終的にあなたは困ってしまいます。

私たちは「愚か者」と聞いたら、「馬鹿な人」だと考えます。もちろん、自分の道を行くと、あなたはいろんな愚かな決断をしてしまいます。

けれども、聖書によれば、愚か者は堕落する人です。

私たちが神様とその知恵を侮ると、愚かな決断をして、私たちは損なわれます。私たちは神様の形として造られました。しかし、私たちの罪はその形に傷をつけてしまいます。

どれぐらい、あなたは鏡を見て、神様の形を見ずに、損なわれたイメージを見るでしょうか。

神様は私たちが完全になるように望んでおられます。また、神様は私たちが神様の形を映すことを望んでおられます。

けれども、そのために、私たちは神様とその知恵を受け入れなくてはなりません。神様から知恵を求めれば、神様は喜んで与えてくださいます。

愚か者にならないでください。すべてのことをもう知っていると思わないでください。

箴言を読むとき、あなたの心を開きましょう。その知恵を受け入れましょう。神様があなたに語りかけ、神の形にあなたを形成してくださるように祈りましょう。

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詩篇

神様を待ち望む

私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。

ダビデはこう歌いました。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)

困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)

多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。

どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)

私は8節が大好きです。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」

どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。

もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。

他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)

そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)

良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。

ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。

だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)

主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。

私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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エステル記

権威のある人を尊敬する

昨日のブログを読んだ方は、私がエステルとモルデカイをあまり尊敬していないと思われるかもしれません。けれども、実際には、私は彼らを本当に尊敬しています。

彼らのすべての決断に同意するわけではないかもしれませんが、彼らは本当に素晴らしい性格を持っていたと思います。アブラハムやダビデ、パウロのように、時々彼らは誤った決断をしたことがありましたが、それでも彼らは神様を心から愛していたと思います。

この箇所では、私たちはモルデカイの性格を伺うことができます。彼は王を暗殺する計画を耳にしたため、エステルに警告しました。その警告によって、悪者たちが捕らえられました。

モルデカイはアハシュエロス王についてどのように考えていたのでしょうか。モルデカイは、以前の女王に対するアハシュエロスの態度を知っていただけでなく、すべての女性に対する彼の態度も知っていました。(その「女王のコンテスト」の時、アハシュエロスは何人と寝たのでしょうか。)

さらに、アハシュエロス王は神様を恐れていませんでしたし、世の歴史書によれば、彼は平和を愛する人物でもありませんでした。

それにもかかわらず、暗殺者とは異なり、モルデカイは王の地位を尊重しました。したがって、暗殺計画を耳にしたとき、彼はすぐにエステルにそのことを警告しました。

モルデカイは王の命を救いましたが、その後も長い間、王は彼に報酬を与えませんでした。それでも、モルデカイは苦々しい心を抱きませんでした。彼にとって最も重要だったのは、権威のある人物を敬うことでした。

ペテロはこう書きました。

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

時々、私たちは権威のある人が私たちの尊敬に値しないと思うことがあります。そのため、私たちの大統領や総理大臣、または上司について文句を言うことがあります。

しかし、神様は私たちが彼らを尊敬するように命じられています。それはなぜでしょうか。パウロはこう書きました。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)

つまり、神様の御心によって彼らが権威を持つので、あなたが神様を恐れるなら、その人々を尊敬すべきです。

あなたはどうでしょうか。権威のある人を尊敬して従うことができるでしょうか。それとも、尊敬しにくいと感じる人がいるでしょうか。

もちろん、その人を尊敬できるなら、従うことは簡単です。しかし、あなたが神様を恐れるなら、神様はその人に従うように命じられます。

それは難しいことかもしれません。それでも、神様を恐れて、権威のある人を尊敬し、従いましょう。