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士師記のデボーション

私たちの心はだれのものでしょうか

彼女はサムソンに言った。

「あなたの心が私にはないのに、どうして「おまえを愛している」と言えるのでしょう。」(士師記16:15)

それはとても皮肉な言葉です。なぜなら、デリラの心はサムソンにはなかったからです。デリラの「愛」は、お金への愛でした。

デリラへのサムソンの愛も、薄められたものでした。

さらに、神様へのサムソンの愛も、薄められたものでした。それこそが、サムソンの最大の問題でした。彼の心は、本当は神様のものではなかったのです。

彼が悔い改めたと信じたいです。でも、彼は本当に悔い改めたのでしょうか。私には分かりません。彼の最後の祈りでは、サムソンはイスラエルの福祉よりも、復讐を考えていたように見えます。

彼はイスラエルを「さばいていた」。しかし、神様から委ねられた羊たちを、本当に愛していなかったようです。

たぶん、イスラエル人たちはそれを感じ取っていたのでしょう。彼らはきっと、サムソンに従う心を持っていなかったのです。(士師記15:11〜12)

では、私たちはどうでしょうか。私たちの心は、本当に神様のものでしょうか。そして、神様から委ねられた人たちを、私たちは愛しているでしょうか。(マタイ22:36〜40)

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら

イエス様は偽預言者たちについて、次のように語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:16)

イエス様は特に偽預言者たちについて語られましたが、私たちは自称クリスチャンたちについても同じことを言うことができます。多くの人々はキリストに従っていると主張し、神様を知り、愛していると述べます。しかし、彼らの実は何でしょうか。

もちろん、最も大切な実は愛です。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙第一4:7-8)

また、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(11-12)

ヨハネによれば、神が私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされる証拠とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。

さらにヨハネは、この教えを深めていきます。神様がイエス様を世の救い主として送られたことを宣言した後、ヨハネは、その真理を私たちの心の中で受け入れたときの当然の反応を説明します。彼はこう言います。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(15-16)

ヨハネは、私たちの神様との関係が、私たちが人を愛するかどうかによるものだと言っているのではありません。むしろ、私たちが神様のうちにとどまり、神様も私たちのうちにとどまっておられるからこそ、私たちは人を愛し始めるのです。

では、なぜヨハネはそう語るのでしょうか。

それは、私たちが神様が私たちのために何をしてくださったかを本当に理解するとき、私たちの考え方が完全に変わるからです。

その結果、私たちは自分の自己価値を疑うことがなくなります。私たちは自分の価値が周りの人々の意見に基づいていないことを知るようになります。むしろ、神様が私たちを愛してくださるという確信を持つのです。

その確信こそが、私たちの人生を完全に変えるのです。

そして、裁きの日においても、私たちはその確信を持ち続けます。

ヨハネはこう言います。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(4:17-18)

ヨハネはこの話を次のようにまとめています。

私たちは愛しています。神が私たちを愛してくださったからです。(4:19)

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(4:20-21,5:1)

要するに、私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、神様のほかの子どもたちをも愛するはずです。

もし、私たちにとって周りの人々を愛することが難しいとしても、それは私たちがクリスチャンではないということを意味するわけではありません。

愛は神様との関係から生まれる実です。すべての実と同じように、その実は最初は小さいものです。しかし、その実は次第に成長していきます。

私たちの神様との関係が深まれば深まるほど、また、神様の愛をよりよく理解すれば理解するほど、周りの人々に対する私たちの愛も成長していくはずです。

次の記事では、この話をさらに続けたいと思います。

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ローマ人への手紙

律法の要求を 満たすため

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(ローマ人への手紙13:8)

私はいつもその言葉を少し不思議に思っていました。

なぜなら、律法の要求を満たすのであれば、他の人だけでなく、神様も愛すべきではないでしょうか。イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、こう言われました。

「「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

これが、重要な第一の戒めです。

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

パウロは必ずイエス様の言葉を知っていたはずなのに、なぜ「他の人を愛する」という戒めだけについて語ったのでしょうか。

私には確かな答えはありませんが、おそらく神様を愛することと他の人を愛することは切り離せないものだからでしょう。

私たちが本当に神様を愛しているなら、他の人も愛さなくてはなりません。もし他の人を愛さないなら、私たちが本当に神様を愛しているとは言えないのです。

ヨハネも自身の書簡の中でそのように語っています。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

また、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

ヨハネの議論に反論するのは非常に難しいと思います。もし私たちが目に見える人を憎むなら、どうして目に見えない神様を愛していると主張できるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは神様を愛していると主張するでしょうか。

あなたは周りの人々をどのように扱っていますか。彼らを見下していますか。彼らを軽蔑していますか。

もしそうしているなら、あなたは本当に神様を愛しているかどうかを考えるべきです。

だから、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:18)