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マタイの福音書のデボーション

敵対的?無関心?情熱的?

天のお父さん、あなたの御子が生まれたとき、ヘロデ王は御子を敵視し、殺そうと思いました。

一方、祭司たちと律法学者たちは無関心で、ただ家に帰りました。

しかし、博士たちは喜びをもって、御子を求め、礼拝に向かいました。

天のお父さん、博士たちの心を私に与えてください。御子を求め、礼拝する情熱的な心を与えてください。

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マラキ書のデボーション

私たちの大祭司の模範に倣う

イエス様、あなたは私たちの完全な大祭司です。あなたは天の父を恐れ、その御名の前におののかれました。あなたの口には真理のみおしえがあり、あなたの唇には不正がありませんでした。

あなたは平和と公平のうちに天の父とともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせました。あなたの唇は知識を守り、人々はあなたの口からみおしえを求めました。

しかし、あなたは今、すべてのクリスチャンをあなたの祭司とされました。あなたは私さえも祭司とされました。私たちを王国とし、あなたの父である神のために祭司としてくださいました。(黙示録1:6)

だから、毎日、私があなたに追随するように。私が天の父を恐れ、その御名の前におののくように。私の口に真理のみおしえがあり、私の唇に不正がないように。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、平和と公平のうちに天の父と共に歩み、多くの人々を不義から立ち返らせるように。私の唇が知識を守り、人々が私の口からみおしえを求めるように。

天のお父さん、私にはその務めを果たす資格がないと感じています。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいます。

けれども、あなたの恵みによって、あなたは私の唇に触れ、私の不義を取り去り、私の罪も贖ってくださいました。(イザヤ書6:5〜6)

だから、私はあなたのみ前に立ち、こう言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

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詩篇のデボーション

王なる祭司への祈り

イエス様、あなたはダビデの主でした。あなたは、私の主です。(マタイ22:41ー45)

あなたは、天の父の右の座に着いておられます。あなたは、すべてを治めておられます。(へブル人への手紙1:3、8:1、10:12、12:2)

さらに、あなたは永遠に私の祭司でした。あなたは、いつも生きていて、私のためにとりなしをしておられるので、私を完全に救うことができます。(へブル人への手紙7:24ー25)

そういうわけで、この霊的な戦いにおいて、私は喜んであなたに仕えます。

私たちは人間と戦うのではなく、霊的な力と戦っています。その霊的な力は、人々を滅ぼそうとしています。(エペソ人への手紙6:12)

だから、私の周りの人々に、あなたの愛で触れるために、私を用いてください。

ここに私がおります。私を遣わしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き

止められない

この箇所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは決して止められません。

使徒たちはさまざまな奇跡を行い、福音を述べ伝えました。その結果、神の国に入る人々はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちに妬みを抱きました。もしかすると、彼らはこう思っていたかもしれません。

「私たちは祭司長であり、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いておられるのだろうか。」

しかし、おそらく彼らは心の中で、その答えをすでに知っていたでしょう。使徒たちを責めたとき、彼らはこう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(使徒の働き5:28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。

おそらく、復活の後、彼らは「私たちは間違っていたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったことでしょう。

もちろん、多くの祭司長たちやパリサイ人たちの考えは変わりませんでした。それでも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいたのです。

とにかく、最高法院の人々はもう一度使徒たちを逮捕し、彼らを責めました。使徒たちは、すでにイエス様の名によって教えないように命じられていたにもかかわらず、教え続けたからです。

ペテロの答えは驚くべきものでした。

人に従うより、神に従うべきです。

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。

私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は特に不思議なものではありません。

けれども、その言葉に祭司たちとサドカイ人たちは面食らったことでしょう。彼らは宗教的な指導者でありながら、復活を信じていませんでした。

さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルに悔い改めを促し、罪の赦しを与えると語りました。

そして彼らは、聖霊様の働きこそが、自分たちの言葉の真実を証明するものだと述べました。

バプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、誰も聖霊様の働きを目にすることはありませんでした。しかし、使徒たちによれば、聖霊様は預言者や祭司だけではなく、イエス様を信じるすべての人の上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを告げました。

そのため、祭司たちや最高法院の人々は、その言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人が立ち上がり、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。

しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言いましたが、祭司長たちは自分が間違っていたのかどうか疑い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に対する彼らの反応は、その疑いを示しています。

もし彼らがイエス様を偽のメシアだと確信していたなら、使徒の働きが神様から出た可能性を認めることはできなかったでしょう。

けれども、彼らにはその疑いがあったため、使徒たちを釈放しました。そして使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされるなら、その働きは決して止められません。

社会の状況を見れば、絶望するかもしれません。迫害を受ければ、私たちは大きな苦しみを味わうかもしれません。しかし、たとえ敵が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様は私たちを用い、神様の国を広げてくださいます。

だからこそ、失望しないでください。むしろ、聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

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詩篇

ご自身の約束を守ってくださる神

これは興味深い詩篇です。つまり、この詩篇の前半は神様に対する祈りですが、後半は神様の答えです。他の詩篇にそのパターンがあったのか、私は今思い出せません。

この詩篇も都上りの歌です。そして、イスラエル人たちはエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌って、神様がご自身のダビデに対する約束を覚えるように祈ります。要するに、ダビデの子孫がいつも治めるように祈りました。

そして、彼らは神様の宮を建てるダビデの願いを思い出して、エルサレムに上がった時、礼拝する喜びを言い表しました。彼らはこう歌いました。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:7)

そして、彼らは神様にこう祈りました。

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、お入りください。あなたと、あなたの御力の箱も。

あなたの祭司たちは、義を身にまとい、あなたの聖徒たちは、喜び歌いますように。(8-9)

つまり、「私たちと共にいてください。あなたの祭司たちは聖くなりますように。また、私たちにあなたの喜びで満たしてください。」

私たちは礼拝するとき、そのような態度を取るべきです。神様が私たちと共にいて、神様の祭司が私たちを清め、私たちを喜びで満たしてくださるように祈るべきです。

イスラエル人たちの祈りを聞いた後、神様はその祈りに応えてくださいました。

神様は、シオンで彼らに会うと約束されました。シオンに関して、神様はこう言われました。

これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。

わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。(14-15)

それに、神様は彼らの他の願いに叶ってくださいました。神様はその祭司たちに救いを着せたし、イスラエル人に大喜びを与えてくださいました。(16)

そして、神様はダビデの王座に座る方を送ると約束しました。その王はイスラエルの敵をも治めるし、光り輝く冠を被と約束しました。もちろん、イエス様はこの世に戻る時、その約束が成就します。

この詩篇を読む時、私は希望があります。なぜなら、神様は決して変わらないし、その約束も変わりません。神様は約束したことを必ず行います。

だから、私はイエス様の帰りを待ち望みます。なぜなら、その日に神様のすべての約束が成就するからです。

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詩篇

私たちの王と祭司

これは、本当に有名なメシアについての詩篇です。イエス様はその詩篇を引用して、パリサイ人が答えられない謎をかけられました。(マタイ22:41-45)

詩篇110篇では、主(つまり、天の父)は、ダビデの主(つまり、メシヤ)にこう言います。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1)

昔は、戦勝した王は敗戦した王の首を踏みました。

この箇所では、天の父がイエス様に敵を打ち勝たせることを約束しておられます。また、イエス様がご自身に逆らう者さえも支配されることを約束しておられます。

しかし第4節によれば、イエス様はただの王ではありません。イエス様は私たちの祭司でもあります。

ただし、イエス様はアロンの系統に属する祭司ではありません。むしろ、天の父はこう言われました。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(4)

アブラハムの時代、メルキゼデクは祭司であり、王でした。

ダビデとその息子ソロモンは王でしたが、時に祭司のように、いけにえをささげたり、主の名によって人々を祝福したりしました。それでも、彼らは祭司ではありませんでした。

しかし、イエス様は私たちの王であり、祭司でもあります。

ただし、アロンの系統に属する祭司の職と、イエス様の祭司の職には大きな違いがあります。アロンとその子孫は、一時的に祭司として神様に仕えました。

その一方、イエス様は永遠の祭司です。なぜなら、イエス様は永遠の方だからです。(へブル人への手紙7:24)

そして、6節によれば、最後の日にイエス様はすべての国々を裁かれます。その日、すべての人々はイエス様の王座の前に立って、裁かれます。

良い知らせは、イエス様は私たちの大祭司なので、天の父の前で私たちのためにとりなしてくださることです。だから、私たちは神様を恐れる必要はありません。

むしろ、へブル人への手紙の著者はこう言います。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

イエス様、あなたは私の王と神と裁判官です。けれども、一番感謝しているのは、あなたは私の大祭司であることです。

あなたは私のためにとりなし、私の罪をあなたの血によって取り去ってくださり、感謝します。

けれども、それよりも、あなたが本当に素晴らしい神であることを感謝します。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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マラキ書

祭司としてのあなたの役割

あなたはこのタイトルを見て、「私は祭司じゃない。この箇所は私には無関係だ」と思うかもしれません。

けれども、もしあなたがクリスチャンであるならば、あなたは神様の祭司です。ペテロは私たちについて次のように語りました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)

だから、クリスチャンとして、マラキ書2章は私たちにも深く関連があります。

この箇所で、神様は祭司たちを責められました。なぜなら、彼らは神様から与えられた務めを忠実に果たしていなかったからです。

しかし、他のユダヤ人と同様に、彼らの最大の問題は、自分の人生で神様を敬わなかったことにありました。

それにもかかわらず、彼らは祭司であったため、神様は特に厳しく彼らを責められました。祭司として、彼らには他のユダヤ人よりも大きな責任があったのです。

その中で、神様は祭司たちと結んだ契約について語られました。その契約は「いのちと平和である」契約でした。(申命記25:12-13)

そして、神様は彼らにこう言われました。

わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。

彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。

祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。(マラキ書2:5-7)

神様の祭司として、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか。神様は私たちにその答えをはっきりと教えてくださいます。

まず第一に、私たちは神様を恐れ、神様の名前におののくべきだということです。つまり、私たちは神様を深く敬うべきなのです。

確かに、神様は私たちを友と呼んでくださいますが、神様は私たちの友達だけではありません。昨日のブログで述べたように、神様は私たちの王であり主でもあります。

クリスチャンの牧師ゴードン・マクドナルドはこう語りました。「私が少しでも神様を恐れることをやめた時、最悪の罪を犯してしまいました。」

神様の祭司として、私たちはそのようになってはいけません。

第二に、私たちは平和と公正のうちに神様と共に歩むべきだということです。このことは、第一のポイントから自然に導かれます。もし私たちが神様を深く敬うならば、平和と公正のうちに神様と共に歩むことができるでしょう。

残念ながら、マラキの時代の祭司たちはそうしませんでした。彼らは神様を恐れることをやめてしまったため、自分たちの要らなくなった足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。

では、神様の祭司として、私たちの役割は何でしょうか。

それは、周りの人々に神様の道を教えることです。私たち自身がその道を歩むことで、周りの人々が私たちの生き方を通して神様を見ることができるようになるはずです。また、彼らが私たちを通じて神様の御教えを求めるようになるでしょう。

けれども、私たちが神様を深く敬わなければ、彼らはそのようにはしないでしょう。

さらに、私たちの唇は神様の言葉を守るべきです。

ただし、私たちが神様の言葉を知らなければ、そうすることはできません。だからこそ、私たちは神様の言葉を学び続ける必要があります。その結果、私たちは知っていることを周りの人々と分かち合うことができます。

この役割は牧師だけのものではありません。あなたも神様の祭司ですから、それはあなた自身の役割でもあります。

そして、私たちは周りの人々を罪から立ち返らせるべきです。彼らが罪に陥り、悪い道を進んでいる時、私たちはそれを見て見ぬふりをしてはなりません。私たちは彼らに警告を与えるべきです。

彼らがその警告を受け入れるかどうかは分かりません。場合によっては無視されるかもしれません。それでも、神様は私たちが彼らに警告を与えることを命じておられます。(エゼキエル記33:7-9)

マラキの時代の祭司たちは大いに失敗しました。彼らはユダヤ人を罪から立ち返らせず、神様の道を教えませんでした。むしろ、彼らの教えによってユダヤ人はつまずいてしまいました。

さて、あなた自身はどうでしょうか。あなたはどのような祭司でしょうか。

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ゼカリヤ書

再びこの世に来られる方

私が好きな歌の一つは、ダラス・ホルムの「Rise Again(よみがえる)」という歌です。この歌は、十字架のイエス様の言葉を想像しています。そして、イエス様が死からよみがえられた後、この歌の中で、イエス様はこう言われます。

どうぞ、私がもう死んだと言ってみてください。
しかし、あなたが間違っていることが分かるでしょう。

どうぞ、私を隠そうとしてみてください。
しかし、結局、この世のすべての人々が、私が救い主であることを知ることになります。

なぜなら、私はこの世に戻るからです。
私が戻ってくるのを止めることができる者は、誰もいません。

私はこの世に戻ります。 私の民を取り戻すために、私は戻ります。

この聖書の箇所は、キリストの再臨について記されています。1〜8節には、神様がこの世の国々とその民を裁かれることが書かれています。

この箇所を黙示録6章と比較すると、おそらく白い馬は戦争を表し、赤い馬は暴力と流血を象徴し、黒い馬は飢饉と死を表しています。また、まだら毛の馬は、黙示録に登場する青ざめた馬と同様に死病を象徴している可能性があります。

これは非常に恐ろしい光景ですが、それでも神様は全てをコントロールされています。あなたは、私たちがその災いをすでに経験していると思うかもしれません。けれども、実際、神様はまだ完全な裁きを注いでいないのです。

しかし、ある日、神様はご自身の怒りのすべてをこの世に注がれます。その時、これまで誰も知らなかったような苦しみがこの世に訪れるのです。

その後、イエス様がこの世に戻られます。この箇所では、大祭司ヨシュアがイエス様を象徴しています。(以前述べたように、「ヨシュア」という名前はギリシャ語で「イエス」を意味します。)

ゼカリヤはヨシュアのために冠を作り、その頭にかぶらせました。その時、ゼカリヤはヨシュアが象徴する救い主について預言しました。

ヨシュアは大祭司でした。一方で、ゼルバベルはダビデの子孫でしたが、王ではなく総督でした。しかし、将来現れる救い主は、王であり、同時に大祭司でもあるのです。

ゼカリヤはこう言いました。

彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(11)

多分、この宮はヨシュアとゼルバベルが建てた宮ではなく、むしろエゼキエル書40~43章に記されている宮でしょう。その時、イエス様は完全な王であり、大祭司となられます。

先に進む前に、少し説明しなくてはならないことがあります。聖書の翻訳は非常に難しく、この箇所ではヘブル語の意味が微妙です。

例えば、ヘブル語の11節では「二」と記されています。この「二」が、「二人」を指すのか、「二つの任務」、つまり「王と大祭司の任務」を指すのか解釈が分かれるのです。

ある英語訳では、「the counsel of peace will be between the two offices」(二つの任務の間に平和の一致がある)と訳されています。

一方、日本語訳では、「このふたりの間には平和の一致がある。」とされています。(実際、日本語訳に近い英語訳もあります。)

これらの解釈の違いは、さらに他の箇所の翻訳にも影響を与えています。日本語訳では、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいる」と訳されていますが、英語訳では、「he will be a priest on his throne」(彼は祭司であって、王座にいる)とされています。

したがって、日本語訳を読むと、大祭司と王は別々の人物であるかのように感じられますが、英語訳では、大祭司と王が同一人物であることが示唆されています。

明確にしておきたいのは、英語訳も日本語訳もヘブル語に忠実であることです。とはいえ、神様が与えられたビジョンを考慮すると、多分英語訳がより適切かもしれません。

例えば、祭司ヨシュアが王の冠を受け取ったことは、この箇所の重要な象徴です。また、聖書の他の箇所からも、イエス様が王であるだけでなく、大祭司でもあることが明らかにされています。

さて、この箇所から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、どんな状況にあっても私たちには希望があるということです。

私たちの世界には多くの問題があります。政治家に目を向けても、彼らを完全に信頼することは難しいです。アメリカでは「正直な政治家」という言葉が矛盾しているかのように感じられています。(日本人はどう思うでしょうか。)

さらに、スキャンダルの影響でクリスチャンのリーダーたちも評判を失うことがあります。

けれども、イエス様が再び戻られる時、この世を正義によって支配し、イエス様の清さはすべての人々に明らかにされます。そして、イエス様を通して、私たちは天の父なる神様の御性質を知ることができるのです。

ですから、戦争や病気、飢饉、天災を見るとき、失望しないでください。神様がすべてを支配しておられるからです。

また、腐敗した政治家や霊的に堕落したリーダーを見るときも、がっかりしないでください。イエス様は必ずこの世に戻って来られるのです。

だからこそ、イエス様に焦点を当ててください。他のものに焦点を当てると、私たちはすぐに失望してしまいます。しかし、イエス様に焦点を当て続ければ、希望は決して奪われることはありません。

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ホセア書

祭司たちは祭司として振る舞わないと

「どうしてこの世界のモラルはだんだん悪くなっているのでしょうか。どこに行っても、誠実さがなく、愛がなく、誰も神様を認めません。殺人や姦淫や嘘が蔓延しています。全てのモラルの境界線は超えられてしまいました。」

このような言葉を聞いたことがありますか。ホセアは約2700年前に同じことを語っていました。時が経っても、何も変わらないのですね。

神様は全てのイスラエル人を裁かれましたが、特に祭司たちを責められました。彼らは神様を礼拝すると言っていましたが、実際にはヤロブアム1世の金の子牛を通して神様を「礼拝」していたのです。おそらく彼らはバアルも礼拝し始めていたのでしょう。

だから、7節にこう書いてあります。

彼ら(つまり祭司たち)はふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。(ホセア書4:7)

だから、神様についての知識は失われ、または、その知識が歪められてしまいました。そこで、神様は祭司たちにこう言われました。

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。(6節)

そして、神様はこう言われました。

だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行ないに報い、そのわざの仕返しをする。(9節)

神様は今でも、このようなことを言われるかもしれません。しかし、私は悪い牧師や祭司について話しているのではありません。クリスチャンについて話しています。私たち全員が神様の祭司なのです。(第一ペテロ2:9)

もし私たちが霊的な不貞を犯すとしたら、つまり、自分自身のために生きたり、この世のものが私たちの神になったりしたら、どのような祭司になるでしょうか。私たちはこの世界に良い影響を全く与えられません。

私たちがこの世界に神様についての本当の知識を与えず、神様の教えを妥協したとしたら、この世の悲惨な状態を見ても驚くことができるでしょうか。

この世の人々は地獄に行くかもしれませんが、もし私たちが祭司として不忠であったならば、神様は「これはあなたのせいです。どうしてあなたが私の祭司でありながら不忠だったのでしょうか」と尋ねられるでしょう。

あなたはどのような祭司でしょうか。