カテゴリー
ヨハネの黙示録

私たちの責任を問われる方

裁きの日。

その日は、私たちすべてに迫っています。けれども、信者たちが最初に裁きを受けるのです。3章の終わりで、私たちはこの真理を学びます。

この幻の中で、ヨハネは自分を呼ぶ声を聞きました。その声の主に向いたとき、ヨハネはイエス様を見ました。イエス様は七つの金の燭台の間を歩き、七つの星を持っておられました。

ところが、イエス様のお姿は以前とはまったく違って見えました。なぜなら、ヨハネはイエス様のすべての栄光を目にしたからです。

この幻において、イエス様の容姿がどこまで文字通りに描かれているのか、それとも比喩的な表現なのか、私には断言できません。

それでも、ヨハネが伝えようとしている要点は明確です。私たちは裁かれ、イエス様は私たちの責任を問われるのです。なぜなら、私たちは神様の教会、神の民だからです。

黙示録には、数多くの象徴が登場します。ヨハネはある象徴については明確に説明しますが、他のものについては一切解釈を加えていません。けれども、この箇所では、七つの金の燭台と七つの星の意味がはっきりと解き明かされています。

七つの金の燭台は、ヨハネがメッセージを伝えるべき七つの教会を表しています。そして、七つの星は、それぞれの教会に関係する「み使いたち」を指しています。

聖書学者たちは「み使い」の意味を巡って議論を続けています。というのも、この語にはさまざまなニュアンスがあるからです。一つは、「使者」という意味。そしてもう一つは、霊的な存在としての「天使」という意味です。

私自身の考えですが、おそらくこの「み使いたち」は天使たちだと思います。天使たちは、教会に対して何らかの役割を担っているように見えますし、もしかするとそれぞれの教会に対して、特定の天使が責任を持っているのかもしれません(第一コリント11章10節)。

ともあれ、この幻の中で、イエス様は七つの教会の間を歩まれています。そして2章・3章によると、イエス様はその教会をよく見て、調べておられます。それぞれの教会には担当する天使がいますが、その天使たちもまた、イエス様の御手の中にあるのです。

イエス様の様子に関するヨハネの描写から、私たちは自分の裁き主について多くのことを学ぶことができます。

第一の象徴は、イエス様が賢明な方であるということです。イエス様の白い髪は、その賢明さを象徴しています。イエス様は弱々しいお祖父さんではなく、むしろ、真に賢明な方なのです。そして、その賢明さによって、人々を裁かれます。

第二の象徴は、イエス様の燃える炎のような目です。それは、イエス様がすべてを見抜かれることを意味します(2章23節)。

その御目によって、真理を隠すものは焼かれ、隠されたものは現れてきます。

第三の象徴は、イエス様の真鍮のような御足です。その御足はすべてを踏みしめます。つまり、イエス様は人を裁かれるのです。そして、悔い改めを拒む者にとって、その裁きは非常に厳しいものとなります(2:21〜23)。

そして、イエス様の御声は、大水の轟きのようです。つまり、イエス様は全能の主の力と権威によって語られるのです(エゼキエル記1:24)。

また、イエス様の御口からは、鋭い両刃の剣が出ています。なぜその剣には両刃があるのでしょうか。なぜなら、イエス様の裁きの言葉は、ただ人々を裁くだけではなく、私たちを癒してくださるからです。その言葉は罪人を断ち切りますが、傷ついた者を癒します。

2~3章で、私たちはその両刃の剣を目にします。

最後に、イエス様の御顔において、私たちは神様の栄光と聖さを見るのです。

ヨハネはイエス様を見たとき、恐れて、御足もとに倒れ込みました。すべての知恵と知識を持つ全能の神を目にしたなら、私たちも同じように倒れ込むことでしょう。

しかし、イエス様はヨハネを励まされました。そして、私たちのことも励ましてくださるのです。

恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。(ヨハネの黙示録1:17-18)

どうしてヨハネには恐れる必要がなかったのでしょうか。 なぜなら、十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたからです。 そして、イエス様の復活によって、天の父はイエス様の贖いを受け入れられたことを証明されたのです。 それゆえ、私たちは死から解放され、イエス様にあって永遠の命を持つのです。

ゆえに、裁きの日に、何が私たちを神様の愛から引き離すことができるでしょうか。 何もありません。

それでも、私たちは裁かれるのです。 イエス様は七つの金の燭台の間を歩かれておられます。 そして、イエス様はその教会の中にある一人一人を調べておられます。

これから数日にわたって、七つの教会への手紙を噛み締めましょう。 イエス様の言葉があなたを切り、癒すことを許しましょう。 悔い改めなくてはならないなら、すぐにそうするのが良いでしょう。 しかし、今あなたが傷ついているなら、その言葉の癒しを受けましょう。 そして、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)